2013年1月23日(水)國分功一郎「暇と退屈の倫理学」の感想文

  • 國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読んだ。あとがきで「君はどう思う?」と問われたので「そう思わない」と書いた。はたしてその理由は!? » 縦書き表示

  • (2013年1月23日(水) 午前1時45分18秒 更新)
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はじめに

暇倫、やっと読んだ。おもしろかった。この本は、哲学、人類学、社会思想史、生物学、さまざまな分野を精力的に渡り歩き、嗅覚鋭く「退屈」の正体を探求していく本である。そして最後には、「退屈」といかに向き合うべきか、いくつかの結論が提案される。退屈から逃れるために、ときに決断に憧れ、大いなるものへの従属を渇望してしまう人間は、その不幸からいかにして救われうるのか。それは暇倫を読んでのお楽しみ、と言いたいところだが、以下盛大にネタバレするので、未読の場合はこの感想文を読まない方が好いだろう。

暇倫で参照される学説、提示されるアイディア、それらひとつひとつはいちいち興味深くおもしろかった。いろんな考えが浮かび、想像が広がって、楽しい読書体験だった。でも要するに僕は、暇倫の結論にも、結論に至る道筋にも、いまひとつ感動できなかったのだ。手放しで感動できるならば、ネタバレさせる必要はないが、そうでない場合は批判的にネタバレさせざるを得ない。念のためにもう一度言おう。未読の場合はこの感想文を読まない方が好い。暇倫を読む前にこの感想文を読んでも言葉の意味がわからないところがあるだろうし、たぶん何に文句をつけているのかわからないんじゃないだろうか。

というわけでこの感想文では、暇倫をなぞりながら、アカデミックな訓練をほとんど受けておらず、わざわざ原典を参照する気などさらさらない、一人のカジュアルな一般読者として、自分なりの結論を考えてみたいと思う。

パスカルの退屈論

暇倫が最初に取り上げるのはパスカルの退屈論だ。パスカルはこんなこと言っているという。

人間が不幸になるのは、部屋にじっとしていればいいのに、退屈に耐えられず気晴らしとして余計なことをするからだ(要約)。

そして、パスカルはウサギ狩りを例に挙げる。ウサギ狩りをしているひとはウサギがほしくてウサギ狩りをしているのではない。その証拠に、ウサギ狩りをしにいくひとにウサギをあげてみればよい。きっとイヤな顔をするだろう。なぜなら彼らはウサギがほしくてウサギ狩りをしているわけではなく、退屈から逃れるために気晴らしをしたいだけだからだ。にもかかわらず、彼らは<欲望の対象>(ウサギ)を<欲望の原因>(退屈に耐えられない)と取り違えているのである。

なるほど、いじわるだが的を射た指摘に思える。でも、パスカル先生、ちょっと待ってください。21世紀において、僕らはウサギ狩りなんてしないんです。そのかわり、サッカーやテニスやテレビゲームをやっております。

「ふむ、そうかね。しかしキミはボールを相手ゴールに蹴り込みたいのではない! 実は気晴らしをしたいだけなのだよ!」
「そしてキミは、そのゾンビを銃で殺しまくりたいわけじゃない。本当は気晴らしを(略)」

こうなるとちっとも迫力がない。「だから?」と言いたくなる。それに21世紀を待たずとも、パスカルの生きた17世紀にも、気晴らしとして作られたゲームがたくさんあったはずだ。それにも関わらず、筆頭ウサギ狩りを気晴らしの例に挙げるのはかなり意図的である。僕らは実際には、気晴らしを気晴らしと正しく認識した上で、気晴らしが楽しいから、もっと前向きに気晴らしに取り組んでいる。パスカルの皮肉に満ちた視線は、学者たちが情熱を傾ける探求にもおよぶ。所詮それらも退屈から逃れるための気晴らしなのだという。なるほど、ウサギ狩りの例からまっすぐここに至ると、何か痛いところをつかれたような気分になる。でもこれでは、食う、寝る、子づくり以外、なんでもかんでもとどのつまりは気晴らしだと言えてしまう。

パスカルの退屈に関する議論は、どこか逆説的でおもしろいものの、立ち止まって自分自身の体験と照らし合わせてみると、何かだまされているような、実感とかけ離れている印象を受ける。実は暇倫では、もっと丁寧な議論を経て、気晴らしを前向きに捉え得ることを示されるのだが(ぜひそのあたりは実際に読んで体験してほしい)、人間が退屈フォビアに追い立てられる存在として規定されることには、僕はのっけからどうにも釈然としなかった。

パスカルを経て、この後の議論は「退屈は気晴らしを求める」が逆転し「気晴らしあるところに退屈あり」とほのめかされるようになる(はっきりそうは言わないが…)。だがもしパスカルが言うように、人間のあらゆる活動が「気晴らし」と解釈し得るとして、その上に、「気晴らし」あるところに「退屈」あり、とするなら、人間のあらゆる功罪の根源に退屈を見いだせてしまうだろう。たとえば、暇倫の重要なテーマの一つである消費社会批判に議論が及んだとき、唐突に「疎外」と「退屈」が結びつく(社会思想史を駆け抜ける疎外の議論はとてもおもしろかった!)。消費社会は満たされなさという退屈を再生産するのだという。このあたり、疎外と退屈の関係が少し強引というか、正直わかりにくかった。そんなことまで退屈と言っていいのか、読んでいて確信が持てないのだ。退屈ってそういうものだったろうか。

退屈とは何か

では肝心の「退屈」とは何なのか。暇倫ではハイデッガーの退屈論を一つの指針として、退屈のメカニズムを解き明かしていく。ここもとてもおもしろいところなので、まだ読んでいないのに、うっかりこの感想文を読んでしまっているなら、ぜひ先に暇倫を読んでほしい。

ハイデッガーはひとまず退屈を二つに分けてみてはどうかと提案している、という。一つ目は、何かによって退屈させられることであり、これを退屈の第一形式と呼ぶ。二つ目は、何かに際して退屈させられることで、これを退屈の第二形式と呼ぶ。これだけではわかりにくいが、暇倫ではハイデッガーが挙げる具体的な例を詳細に分析していく。これはただの感想文なので、ざっと概観するにとどめよう。

何かによって(受動的に)退屈させられる「退屈の第一形式」とは、たとえば列車の乗り換えに長い待ち時間が必要だった時、乗り継ぎの列車を待つ間に感じる退屈だ。本を読む気にもなれず、あたりをうろついてみても、何をしてみても、なかなか乗り継ぎ時間にならないことが気になる、そんな退屈である。ちなみに、挙げられた例では4時間もの待ち時間がある。

ハイデッガーはこの退屈をこんな風に分析しているという。退屈の第一形式では、物が(ここでは駅舎が)理想的時間(ここでは乗り継ぎ時間が数分)のうちに私たちが期待するもの(ここでは乗り継ぎ列車)を提供しないので、私たちはぐずつく時間に<ひきとめ>られ、(期待するものが得られず)<空虚放置>される。すなわち、このとき私たちは、物(ここでは駅舎)によって退屈させられている。これが退屈の第一形式である。なかなか説得力ある分析だとは思う(いや暇倫には説得力ある詳細な説明があるのです)。でも、ここでもう少し、この例に置ける「気晴らし」について考えてみたい。

ハイデッガーの挙げる例では、列車を待つ間様々な気晴らしが試される。街道を歩いてみたり、並木の数を数えたり、地面に落書きをしてみたり、いろんなことをやってみるのだが、結局は時計を確かめたくなるのだった。つまり、これらの気晴らしは完全に失敗している。気晴らししているさなかにも明らかに退屈しているからだ。なぜこれらの気晴らしはことごとく失敗したのか。そもそも本を読む気になれないのはなぜなのか。本を読むのは、考えられた中でもっとも有益な「仕事」だというのに?

この謎を解く鍵は、気晴らしが成功する場面にこそあると思う。たとえばこんなのはどうだろう。乗り換え時間を待つ間、ふと思い出すのだ。そうだ、たしかこの街に10年来会っていない古い友人が引っ越したのではなかったか。手帳をめくると幸運にも連絡先の電話番号がメモしてあった。電話をかけてみる。はたせるかな、彼が電話口に出てきた。懐かしい声だ。ちょうど仕事が一段落したところで今から数時間程度なら時間を作れるという。少しうきうきしながら駅近くのカフェで待つ。と、少し老けたがあのころと同じ顔が満面の笑みでやってくる。懐かしい話、知らなかった旧友の消息、さまざまな話題で盛り上がり、気がつけばもう乗り換え時間となっていた。そして車窓越しに駅で見送る友人に手を振りながら、今日この街で長い待ちぼうけを食らったことはむしろラッキーだった、などと考える。

こんな顛末でも、パスカルなら「キミは友人に会いたかったわけではなく気晴らしがしたかったのだ!」と言ってくれるはずである。しかしこの気晴らしは、並木を数えるのとは違い大成功を収めた。では、成功する気晴らしと失敗し退屈してしまう気晴らしには、どんな違いがあるんだろう。気晴らしが成功する決め手はどこにあるんだろうか。

それは、その場面に期待する満足と同等かそれ以上の満足が得られるかどうかにある。久しく会っていない友人と会うという試みは、列車がすぐに来たときに得られるであろう満足と十分に肩を並べる満足だった。だから気晴らしは成功したのだ。一方、並木を数えてみても、列車がすぐにやってくることと比べれば、取るにたらない満足しか得られない。少しやってみればそんなことぐらいすぐにわかる。かくして気晴らしは失敗し、退屈が続く。

本を読むのは好い考えかもしれない。でも、その本は実のところかなり手強い本なので、途中で関連する本を調べたくなるだろう。時間内に読み終わらず、切りの悪いところで読むのをやめなければならなくなるかもしれない。同じ読むなら書斎でじっくり読んだ方がより高い満足を得られる。列車がすぐ来ないことの気晴らしのために、その満足を犠牲にするのはもったいない。

このように、成功する「気晴らし」と失敗する「気晴らし」、さらには、試みるに躊躇する「気晴らし」とを比べてみると、退屈という気分に、僕らがその場面に期待する満足の「度合い」が深く関わっていることがわかる。

さあ、さっそく僕なりの「退屈とは何か」が見えてきたのではないか。すなわち、「退屈」とは、「『当面、期待するほどの満足を得られそうもない』という予感」である。僕らはこの予感によって、意欲をくじかれたり、焦ったり、なんとなく不満を感じたりするのだ。

話をハイデッガーの退屈論に戻そう。ハイデッガーが提案するもうひとつの退屈、何かに際して(能動的に)退屈する「退屈の第二形式」について考えてみたい。これは、よくあるかんじのパーティに招待されて、慣例通りに上質なお料理とこれまた慣例通りに愉快なおしゃべりを存分に楽しんで、たいへん楽しい気分を味わっているにも関わらず、退屈だと感じる、そういう退屈なのだと言う。

楽しいのに退屈とはこれいかに? 退屈の第二形式はなにやら手強そうである。でも実はそうでもない。要するにこれは「倦怠」あるいは「マンネリ」のことだ。ハイデッガーが例に挙げるパーティは、なにも謎めいていない。マンネリ化したパーティである。パーティの中で起きた個々の出来事をそれなりに楽しめたとしても、パーティ全体としてはマンネリだった、ということだ。

試みに、少し倦怠感の出てきたカップルを考えてみればよい。会えばそれなりに楽しいし気持ちが温かくなったりもする。でも、前ほどラブラブではない。ハイデッガーがいう退屈の第二形式とは、実はそういう話じゃないか。もちろんハイデッガーはこんなことを言っていないのだった。さて、ここからいよいよ不遜にもハイデッガーの退屈論をはなれて、我流退屈論を展開しよう。

僕が退屈の第二形式についての議論を読んでいて不思議だったのが、パーティの例でわざわざ「慣例通りの」とか「よくあるかんじで」といった言葉が出てくることに、ほとんど何も言及されないことだ。「慣例通りの夕食」「慣例通りの会話」「よくあるかんじで楽しく」。これらはどう考えても、ちょっと飽きてきた気分を表している。退屈を分析する上でこれらの言葉は重要にちがいない。そこで、「慣例通り」ということと「退屈」との関わりについて、少し考えてみよう。

暇倫を読む限りでは、ハイデッガーが例に挙げるパーティが決まった仲間による恒例のパーティなのか、ある種の階級に属する人々が開く「慣例通りの」パーティなのかわからない。ここではとりあえず「いつもの仲間のパーティ」ということにしよう。

ではいつもの仲間が集まるパーティがまだ慣例となる前はどうだったのだろう。退屈したのだろうか。いや、始めから退屈を感じていたなら慣例となるほど参加し続けようとは思わないはずだ。つまり、最初の頃は文句無しに楽しかった。退屈という言葉は頭の中からすっかり消え失せていたことだろう。

あの楽しいパーティをもう一度! やがてパーティは皆が楽しみにする慣例となった。しかし回を重ねるにつれ、同じことをしていても最初の頃の高揚感は感じられなくなっていく。というよりも同じことを繰り返すからこそ、慣例通りの展開に慣れっこになる。たとえどんなに楽しみ方を工夫してもいずれはそのこと自体が慣例となり、ありきたりでおなじみのものとなるだろう。

それでも楽しいことは楽しい。パーティには皆がお気に入りのモノやコトがあふれている。きっと最初の頃には、皆が一等お気に入りのものが毎回のように発見され、大いに盛り上がり、次々に慣例として取り入れられたはずだ。だが、もはや「あの楽しさ」は感じられない。同じことをしているというのに!

だからといって慣例を大きく変えることもできない。なぜならそれらの慣例は楽しかった実体験に裏打ちされている、皆が気に入っているはずのものだからだ。よほどすばらしいアイディアでもないかぎり、「あの楽しさ」を上回ることはないだろう。それならば、何度も繰り返され少々色あせたとは言え、この楽しさを慣例通りにたどる方がよい。その方が確実な満足を得られる。

もちろん、とんとんと指で机を叩いてみたり、わざとらしくあくびをしてみたり、なんていう「気晴らし」はできるかぎり避けなければならない。楽しいパーティであからさまに退屈しているサインを発することは、パーティの雰囲気を台無しにして、今得られている満足さえ失うことになるだろう。手遊びの気晴らしで得られる満足など、今得られているそれなりの満足に比べたら取るにたらない。ハイデッガーの挙げるパーティの例では、パーティにそうした気晴らしを行う隙がたとえあろうと、それらを実行することはきっとあり得ない。もしうっかりやってしまったら「仕事でイヤなことがあったので」とか「実は最近寝不足で」などと念入りに言い訳をアピールするはめになるだろう。

このように、退屈の第二形式にも「『当面、期待するほどの満足を得られそうもない』という予感」が見いだせる。そして、ここでもやはり、取りうる選択肢の間で、それぞれ予想される満足の度合いが比較されているのだ。

一方ハイデッガーは、退屈の第二形式において、周囲にただ合わせるという自らの投げやりな態度によって、自らのうちに満たされぬ空虚が成育し、私たちは<空虚放置>されるのだ、と分析しているという。本当にそうだろうか。パーティの例で周囲に合わせるのは、その方がよりましな満足が得られると思っているからではないか。投げやりとも言えるが、それは能動的にあえて選ばれた態度でもある。

たとえば、パーティの途中で思いがけず「ドン!ドン!」という低い音が聞こえてきたらどうだろう。それに気づいているのは自分だけのようだ。そうだ。今年からすぐ近所で大きな花火大会が開かれるのだった。そういえばいつになく道が混雑していた。そんなときは周囲にあわせない選択もあり得る。どうです? 花火会場に面したバルコニーに出てみませんか? かくして、おいしいお酒を片手に皆ですばらしい花火を楽しむことができた。それも思わぬ特等席で! 皆大いに満足したようだ。話も弾んだ。ひさしぶりに心から楽しいパーティだった! 退屈して慣例に身を任せている人でも、慣例通りにするよりももっとよい選択肢があれば、それを選ぶのにやぶさかではない。

慣例的なパーティで退屈になるのは、あのころのあの楽しさが、同じことの繰り返しの中に再現されるのを、どこかで期待してしまうからだ。僕らは、ある場面にある度合いの満足を期待し、かつ、その満足が当面かないそうもないと感じるとき、退屈するのである。

これが、いつもの仲間のパーティではなく、よくあるかんじのパーティであっても同じことだ。このパーティは、慣例通りでよくあるかんじに実に楽しい。けれども、あの楽しかったパーティにはおよばない。そんなとき、やはり僕らは楽しさのうちに退屈してしまう。「あの楽しかったパーティ」とは、社交界にデビューしたてで何もかもが驚きに満ちていたころのパーティかもしれないし、奇跡的にうまがあうメンバーがそろったあのパーティかもしれない。いずれにせよ僕らは、それら楽しかったパーティの、漠然とした楽しさの記憶によって、よくあるかんじのパーティに、ある度合いの満足を期待し、それがかなわないために退屈してしまう。

ある場面に期待される満足の度合いは過去の記憶によって作られるだけではない。退屈の第一形式で例に挙げられた列車の待ち時間では、「乗り継ぎ列車がすぐに来ることもあり得る」という、この世界に関する知識によって、期待が生まれている。

ハイデッガーは、人間が乗り継ぎ列車がすぐに来ることを期待し、すぐに来ない列車によって退屈させられるのは、人間が強迫的に時間を失いたくないと思い「仕事の奴隷」となっているからだと考えた。なるほど、そういうケースも大いにあり得るだろう。だがこれは的外れな指摘だ。

なんらかの技術的な限界により、列車の乗り継ぎには絶対に4時間待たなければならない世界があるとしよう。そのような世界の人間が、乗り継ぎに4時間待たされたところで、現代日本の、それも東京に住んでいる人間と、同じくらいの退屈やいらだちを感じるだろうか。世界に関する知識がちがっていれば、退屈の条件も当然変わってくるのではないか。仕事の奴隷とかけはなれた人間であっても、乗り継ぎ列車がすぐに来ることもあり得ると知っていれば、やはり列車がすぐ来ることを期待せずにはいられないはずだ。

同様に、同じパーティであっても、参加する文脈によって、退屈することもあれば、退屈しないこともあるだろう。

友人が言う。あそこの社長が開くパーティはすばらしいよ。とにかく集まるメンバーがいい。あれこそ洗練された人々だ。毎回あそこでかわす会話には学ぶことが多いんだ。期待に胸を膨らませ、高い参加費を払い、時間を割いて参加してみる。ところが、上品ではあるものの、ありきたりのパーティだった。それほど興味を引かれる話題もない。退屈だ!

同僚がパーティのチケットを押し付けてきた。取引先の社長が開いているパーティでね。今回は出張で参加できないんだが、社としては誰か参加しないわけにはいかない。キミ、行ってきてくれないか。えらいさんばかりで気を遣うしあんまり楽しくないけどね。しょうがなくパーティに参加する。ところが皆対等の立場で気さくに話しかけてくれるし、料理はおいしく、話題も品がよくて居心地がいい。なんだ、こんなパーティなら毎回でも出たいくらいだ!

退屈の第一形式でも第二形式でも、退屈が感じられるかどうかは、僕らがある場面に期待する満足の度合いによって左右される。どちらも「『当面、期待するほどの満足を得られそうもない』という予感」であり、その点で同じものなのだ。

では、ハイデッガーの言う退屈の第三形式ではどうだろうか。あらゆることが言うことを聞いてくれず、「なんとなく退屈だ」と感じる。もはや気晴らしはゆるされないとわかっている、もっとも根源的な退屈、それが退屈の第三形式だという。その中で人間は、自分に目を向けることが強制される。そして、「人間としての自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる」。

ここで重要なのは、可能性を告げ知らされはするが、それが何で、どうすれば手に入るかは、依然としてさっぱりわからないということだ。そこでハイデッガーはいっそ決断せよという。なにかしらの可能性を選び取って具現化し、それによってあらゆる可能性に拒絶された現状を突破せよと(超要訳)。暇倫では、この、ときに危なっかしい結末をまねきかねないハイデッガー流の決断主義が、なんとハイデッガー自身の退屈論に基づいて批判的に検討される。このあたりもとてもおもしろいのだが、既にこの感想文はハイデッガーの退屈論を離れてしまっているので、ここはどんどん先へ進もう。

あらゆることが言うことを聞いてくれないと感じる。つまりは、あらゆることに十分な満足を見いだせない。それは逆に言うと、今までに経験したあらゆる満足を凌駕する、今日を昨日から区別してくれるような、そんな何かを期待している、ということだ。ハイデッガーの言うように、退屈の第三形式は、授かっていなければならない可能性を告げ知らせる。しかし、その可能性は当面手に入りそうもない。何しろその可能性がいったい何かもまったくわからないのだから。

ということは、退屈の第三形式もまた、「『当面、期待するほどの満足を得られそうもない』という予感」に他ならない。毎日が結局は同じことの繰り返しだと感じ、今日を昨日と区別してくれるような、未だ経験したことのない高揚あるいは満足の到来を期待しながら、同時に、そんなものは永遠に来ない気がする。そんなとき僕らは「なんとなく退屈だ」と感じる。

もちろん暇倫のラッセルの言うように今日を昨日と区別するものが悲惨な事件であっても、退屈は蹴散らされるだろう。そのことは確かに観察される。けれどもだからといって、退屈がなんでもいいから興奮できる事件を求めているとは言えない。退屈から逃れるために破壊を求める者であっても、欺瞞に満ちた世界を破壊するヒーローとしての自分や、既存の秩序が破壊された後にのし上がる自分を夢想しているのであって、破壊の過程で自分が真っ先に意味もなく犬死にすると想像するものはまずいない。

これで退屈の第三形式にも、「期待」が大きく関わっていることがわかった。とすれば、退屈に向き合う方法は、既に知られている。しかも、人類はそれを少なくとも2500年に渡って試みてもいる。一切の煩悩を捨て、世界をありのままに受け入れればよいのだ。

しかしこの真に正しい道はおそろしく困難な道でもある。この世界でこの道を極めた者はこれまでただ一人しかいないし、この世界に次に道を極める者が現れるころには、太陽が水素を燃やし尽くし真っ赤に膨張し始め、地球は灼熱の炎に焼かれているかもしれない。言うまでもなく退屈の解決のために56億7千万年を待つことはとてもできない。それにそこまで待たずとも、人類は遠からず幼年期の終わりを迎え、あるいは人類補完計画を完遂し、LCLの海の中で一つの巨大な知性となっているかもしれない。そして、エビ型宇宙人をあやつって同類を捜してみたり、あるいは、気ままに自らの形を変え複雑な数式を立体で表現したり、立ち寄った異星人の精神を理由なくもてあそんだり、するかもしれない。当たり前だが、そのころには期待も退屈も人間的ななにもかもが完全に意味を失っているだろう。

いずれにせよこの解決は、人間らしさの一部を諦める道でもあるだろう。それは暇倫のめざす解決からはやや遠い。そこでここからは、ひとまず暇倫に倣って、「環世界」という概念を手がかりに、退屈のメカニズムと人間らしさとは何かについて考えよう。退屈するのが人間ならば、人間らしさの先に、退屈とつきあう方法もまた、みつかるはずだ。

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