2013年1月23日(水)國分功一郎「暇と退屈の倫理学」の感想文

  • 國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読んだ。あとがきで「君はどう思う?」と問われたので「そう思わない」と書いた。はたしてその理由は!? » 縦書き表示

  • (2013年1月23日(水) 午前1時45分21秒 更新)
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新しい型の解放の要求

現代の「豊かな」社会に生きる僕らは消費社会を生きている。今や物はその使用価値によってではなく、他者との差異、すなわち「個性」を示す記号として消費されている。思想雑誌の類いを購読するのは知的な自分を演出するためであり、ある種の車を買うのはワイルドなイメージを回りに見せつけるためである。旧製品でも十分に使用目的を果たすのにモデルチェンジのたび新製品を手に入れるのは、流行に敏感で先進的な自分であるためだ。このように人々は常に他者との差異を求め「個性」を渇望する。というよりも生産者によってそう仕向けられる。生産者は、人々の差異化への欲求を、絶えることなく消費へと向かわせようと、物に差異化の記号を与え、定期的にそれを新しいものに更新し続ける。消費社会においては、欲求が生産を生むのではなく、人々の欲求の体系が生産者によってあらかじめ用意されるのだ。もし欲求の対象が物そのものであれば、その使用価値において過剰に受け取ることができ、結果満足がもたらされるだろう。しかし、欲求の対象が差異化を表す記号である場合は、記号を過剰に受け取ることがあり得ない。物そのものとちがって記号は無限にあり得るからである。そのため人々は消費しても決して満足することがなく、さらなる差異を求め新たな消費へ駆り立てられる。つまり「豊かな」はずの社会には、人々の差異化への欲求の限りのなさと比べ「物がなさすぎる」ということになる。

豊かさが記号となり果てた消費社会に対し、未開の社会には物質的な貧しさの中に真の豊かさがある。彼らはほとんど何も持たず貯蔵や蓄積がないが故に将来何かがなくなることを心配する必要がない。彼らは手に入った物は手に入ったときに一度に使い切ってしまう。たっぷりと必要を超えて手に入ったときでも同じである。そのとき、そこには消費ではなく浪費がある。物が豊かにあふれ、人々は心から満足するだろう。

暇倫において消費社会批判は重要なテーマとなっている。むしろ暇倫では行き過ぎた消費社会をなんとかしたいがために退屈が論じられていると言ってもいい。暇倫は消費社会の根源を退屈に見ている。退屈に倦み「何か違う」「これじゃない」と、疎外を感じる人々が、産業が用意する楽しさや個性を求め、絶えざる消費のゲームに自らを巻き込んでいく。この悪循環をいかにして止めればよいのか。暇倫は人々が物を受け取れるようにすればよいという。そして<物を受け取ること>はその物を楽しむことであり、物を楽しむには訓練が必要だとした。

先に指摘したように「訓練」の勧めは少々くせ者である。もし訓練の奴隷となる危険に目をつぶるとしても、暇倫が勧める処方箋が具体的にどのような消費行動を想定しているのか、正直言ってよくわからない。もっとも近いのは、LOHAS だろうか。そうだ。あの、自己開発や社会的責任を重視する、意識の高い「金持ちども」の消費スタイルである。なるほど、よいものを楽しみながら長く使うという消費行動が社会の趨勢となれば、消費社会の負の面は軽減されるだろう。しかし LOHAS がそうであったように、そのような消費行動を推奨することが、中身のない金持ち相手のマーケティングと見られる限界を超え、広く支持されるようにはあまり思われない。(ただ、暇倫の関心は個々人が如何にあるべきかというところのみにある。おそらく暇倫は、社会を構成する個人がそれぞれ自分のありようを真剣に考えれば、自ずと問題は解決するしそのようにするしかないと考えている。だから支持されるかどうかはお門違いの指摘とされるだろう。)

そもそも物自体を受け取るとはどういうことだろう。それは楽しむことと言っていいのだろうか。真に物を受け取ることなく物を消費する場合、すなわち差異化の「記号」として物を受け取る場合、物を受け取った瞬間が最も高い満足をもたらすにちがいない。たとえばそれが「モデルチェンジ」や「最新ガジェット」といった記号ならば、その記号そのものがその定義によって時間とともに消え失せてしまう。そうでなくても物に与えられる記号は生産のシステムの側にあるので、消費者によって後から記号を与えなおすことはできない。したがって人々が手にした記号は遠からず見慣れたものとなり陳腐化する。生産のシステムが勝手に「時代遅れ」という記号を後から与えなおすことすらあるだろう。結果消費者は手にした物にすぐに飽き、絶えず新たな差異化を欲求する。

一方「使用価値」において物を受け取るならば、物が使用価値を満たすたびに満足を覚えることができる。それだけでなく、その物の使用価値を消費者自身が後から変更できる。物の「使用価値」は消費者の側にあるのだ。つまり物を受け取るとは、物をその使用価値において受け取り、受け取った後も物と積極的に関わりつづけるということである。いわば物との対話のうちに、その物の価値を最も高める使用のありようを模索し続けるということだ。それは確かに楽しむことと言っていいかもしれない。すてきな花瓶を買ったなら、季節ごとに花瓶に似合う花をさがして飾ろう。飾る場所は出窓がいいだろうか。それとも食卓の上? 思った以上に美しくはまったときには、花瓶を買った時以上の喜びと満足が訪れるだろう。大好きだったアロハシャツ。何よりこの柄が好きだった。いつしか首回りがよれよれになり、生地があちこちほつけ、全体的に色もくすんでしまった。着ることはもうないかもしれない。そうだ。小さなキャンバスに貼付けて部屋に飾るのはどうだろう。完成したそれはちょっとした絵画のようであり、見ればあのアロハシャツを着て出かけた思い出が数々蘇る。もちろん暇倫の言う楽しむための訓練は、物との対話のひとつとしてあり得る。しかし物を受け取ることの中心は、物を受け取った後に物と対話し使用し続けることにある。

ボードリヤールは消費社会のもたらす新しい社会的強制には、新しい型の解放の欲求しか対応できないと述べているという。消費社会の暴力的無差別破壊あるいは消費社会からの撤退以外に、新しい型の解放の欲求はあるのだろうか。もしそれが拒絶に終わらないのだとしたら、その欲求は消費の形をとって現れるはずだ。消費社会後の「消費」はひとつの言語となった。もはやどんな消費もなんらかのメッセージをおびずにはいられない。あの LOHAS のように。

言語が嘘や詐欺を生んだとしても言語を獲得した人間が言語以前に戻ることはあり得ない。同様に、消費社会に負の面があるとしても今さら消費をすべて止めることは不可能だ。それでも解決方法はある。言語による嘘を無力化するのが同じ言語であるように、消費社会の負の面を中和するのもまた消費であるだろう。

技術的社会的分業と分断が極限にまで進み、人々の人間関係は知らぬ間に喪失されていった。現代の消費社会において、人間関係は差異のネットワークと同義であり、自分も他者もその結節点に過ぎない。しかも、それらは差異によって特徴づけられるものでしかないのだから、少しも唯一のものでなくいくらでも代替可能だ。そのかわり今や人間的温かさは記号として消費される。微笑みを絶やさず恭しく接する店員。毎日お仕事たいへんでしょうと日頃の苦労をねぎらう整体師。親しさや共感はサービスによって手に入れるものとなった。

ほんの少し前までは、消費の中にも人間関係はふんだんにあり得た。かつて商店にあったなじみ客と店主の関係は、現代のショッピングモールではまず見られない。多くの人にとって「お、嬢ちゃん、誕生日だってね。まけとくよ!そうだ、これも持ってきな!」なんて言葉はドラマやアニメの中でのみ耳にする言葉となった。すべてがスーパーで売られている魚の切り身のようだ。人々は切り身の魚がそのまま海を泳いでいるとさえ思い始めている。サラリーマンの多くは、自分が相手に厳しい条件を押し付けていることが、相手の収入を減らすことになり得る要求だとは露ほども思い至らない。あなただって知らぬ間に給料が振り込まれるんでしょう?

「消費社会の神話と構造」の78ページで、ボードリヤールは未開社会についてこう考察している。「貧困とは財の量が少いことではないし、目的と手段との単純な関係でもなく、なによりもまず人間と人間との関係なのである。未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮すことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。」

現代を生きる僕らにとって、このような信頼に基づく人間関係はもはやか細く生き残っているに過ぎない。だとすれば、「新しい型の解放の要求」とは、人間関係を豊かさの強制から解放し、取り替えの効かない実在する他者との「人間関係」を取り戻すことではないか。差異のネットワークを離れ、目に見える実在の誰かと、互いの人格において認めあいたい。誰かを応援し力となりたい。人間関係の喪失が極まるに至って、これまで必要ともされなかったこれら新しい欲求が、事実人々の間にわき起こりつつある。

もちろん産業は人々の新しい欲求を目敏にみつけ、とっくに商品化している。かわいいがどこにでもいそうな女の子をあえて選び、ファンの応援の大きさでセンターが決まるAKB系アイドルは中でも象徴的存在だろう。今や誰かの力になりたいという人々の欲求は架空の他者にまで向かい、昨今の仮想アイドル育成ゲームでは単なる二次元のイラストデータに何万円もつぎこむ人々が登場している。イイネボタンの類いも新しい欲求に応える(と同時にそれを利用した)広告システムである。これらは新しい欲求の完全な消費社会的側面だが、野菜や果物に生産者の写真とメッセージを添えることなどは、実在する他者との信頼関係を求める新しい欲求を、消費社会の負の側面を軽減する方向へいくらか誘導するマーケティングだと言える。逆に、純粋な口コミを装うステルスマーケティングは、それが巧妙に隠されていればいるほど、人々の新しい欲求をだまし裏切るものとなるだろう。蛇蝎のごとく嫌悪されるのは当然だ。

新しい欲求を満たし人間関係を取り戻す消費は可能なのだろうか。それが可能であることを示唆する場がある。ビッグサイト、あるいは、TRC、インテックス大阪、OMMビル、朱鷺メッセだ。そこで開催される、コミケ、コミティア、ワンダーフェスティバル、デザインフェスタ、M3、など、いずれのイベントも年々参加者が増え続けており、とりわけ東京で開かれるイベントには全国から何万人もの漫画・小説・アニメ・フィギュア・アート・音楽を愛する人々が集まる。そうしたいわゆる同人の世界では、イベントに訪れる人々の多数が消費者であると同時に生産者あるいは潜在的生産者だ。会場で頒布される作品はたいていの場合商業作品よりも高い値段で売られているにも関わらず、質が高いものばかりとは言えない。ところがそれでも少なくない数の作品が買われていくのだ。ここでの消費者は生産者に近いので、作品を完成させるまでの労力やかかるコストをある程度正しく見積もることができ、その上で作品の質と関係なく作り手の心意気やこだわりに心から共感することがある。これらイベントにおける消費は作品を認めることと同じであり、他者への評価や共感として消費が行われている。会場ではあたかも未開社会よろしく作り手の間で作品が物々交換されることも珍しくない。ここでの消費は差異化の欲求とほとんど結びついていない。もちろん広告による作為的なイメージの付与もない。人々は消費という言語によって互いに評価し合っているのだ。消費によって実在する他者と対話しているのである。

今日ではインターネットによって、個人がマスメディアを介さずとも多数の個人と「双方向に」つながることが可能となった。結果、同人イベント的な場はネット上に次々展開している。それらは現実の場とも呼応しながら、より多くの人々を巻き込み、ともに発展し続けている。人々が作り出す作品は、今や漫画・イラストに留まらない。テクノロジーは人々の作品造りの幅をもますます押し広げている。個人が作る音楽がこれほどまであふれるようになったのは、作曲や録音、高度な音声加工などを、パソコン上で安価かつ高品質に行えるようになったことと無縁ではない。音声合成技術は多くのパソコン作曲家を歌ものに目覚めさせ、合成音声に飽き足らない作曲家はリアルボーカリストと手を組むことを覚えた。個人がパソコン上で品質の面で商業アニメとひけをとらないアニメを作るようにもなっている。100万以下で格安という世界だが、最近では「パーソナル」3Dプリンターまであるのだ。

こうした対話としての消費を力強く押し広げるには、手軽に利用できるネット上の小額決済が普及することが不可欠だろう。取引が小規模であっても導入費用と決済手数料が安く、買い手だけでなく売り手が導入しやすいことが必要だ。アカウントに一定金額をチャージするプリペイドカードがコンビニなどで広く売られ、クレジットカードを持たない学生などが利用できるようにすることも求められる。現状では PayPal がこの条件に近いが、決定的な解決は未だ現れていない。同人イベント的な場では、自分たちの作品が消費社会に絡めとられ、知らぬ間に誰かの利益のために不当に利用されてしまうことが常に警戒されがちだ。特定のサービスに囲い込まれることは必ずと言っていいほど忌避される。決定的な少額決済システムが現れないのは、そのせいもあるのかもしれない。しかしこれは、同人イベント的な場が消費社会を乗り越える欲求に基づいていることを示唆するものでもあるだろう。

ネット上の少額決済が当たり前に行われるようになり、実在する他者との対話としての消費が広がれば、やがてその消費のあり方は他の消費にも波及するにちがいない。ひとつひとつの取引が小額でも、積もり積もれば巨額になる。消費社会に批判的な立場の人々は経済成長に否定的な反応を示しがちだが、新しい欲求に基づく消費はむしろ経済を押し上げる可能性すらある。というよりも、経済が成長を続け常にお金がスムーズに流れなければ、実在する他者との対話としての消費も、まして日々を芸術で飾ることも、かえって難しくなるだろう。消費社会への対応が拒絶以外にあり得るとすれば、それは経済成長を否定しないものとなるはずである。

ウィリアム・モリスが提唱しそして必ずしも叶わなかった、人々の生活を芸術で飾る夢は、人々に洗練された最高の芸術を与えることによってではなく、人々が自分自身で芸術を作り出しそれを互いに分かち合うことによってこそ叶うのではないか。それらの多くは芸術と呼ぶに値しないかもしれない。だが自分で作品を完成させる喜びと苦労は、「訓練」ではなかなか身に付かない、他者の作品に対する深い敬意を育むだろう。芸術の喜びを真に理解し受け取るには、自分自身でやってみるというのがひとつの近道である。(そして「弊社」最大のテーマもこのあたりにあるのだった。弊社がどこかは秘密ですけど。)

退屈と向き合う方法

退屈と向き合う方法に話を戻す。パスカルは退屈の解決策を「(キリスト教の)神への信仰」に求めたという。暇倫ではこのことについて詳しく触れられていないので、パスカルがどのように考えたのかはわからないが、神を信仰するとなぜ退屈が解決されるのか推測してみよう。

以前なにかの旅番組を見ていた時、すばらしい絶景が朝日に照らされる様子を見て、キリスト教徒と思しき観光客がこう言っていた。「なんて美しい! このような奇跡を見せてくれた神に感謝します。神に愛されていることを感じずにはいられません。」 別にそこはキリスト教の聖地でもなんでもない。信仰を持たないものにとっては、少し不思議な言い回しだった。その観光客は、絶景そのものというよりも、その奇跡的光景を見せてくれる神の愛に感動しているのだという。

「神への信仰」が退屈を解決するのは、こういうことだろう。神を信仰すれば、あらゆる出来事がただ一度きりの奇跡として体験される。いや逆に、あらゆる出来事に神の恩寵が見出されなければならないのだ。そうでなければ神に愛され、最後には救われるという確信を得られない。だから神を信仰する者は、いつもなにかしら御徴をみつけ安心し満たされる。たとえ何も見つけられなくても、神を信仰する者はそれを神の与えた試練として受け止め、自分がそれを乗り越えられるだろうことによって、神に愛されている確信を得るだろう。もちろん奇跡なのだから、あのときの奇跡はよかったけど、今日のはつまらないね、とはならない。したがって、神を信仰する者には、今体験しているこの出来事に対して、快体験の度合いを比較するべき出来事があり得ない。ゆえに神を信仰する者は原理的に退屈を感じない。その点あらゆる出来事に感謝せよと諭す道徳も「神への信仰」と似ている。あらゆる出来事を感謝するべき特別なものとして捉えるよう求めるものだからだ。

一切の煩悩を捨て、ありのままを受け入れよ、とすすめる仏教ではどうだろうか。仏教的に正しい解釈かどうかは別として、あらゆる期待や先入観を排し、ものごとをありのままに見たならば、あらゆる出来事が、自分自身の過去の記憶ともだれかの評判とも比べようのない、一度きりのものとして体験されるはずである。ということは、ありのままを受け入れられる人間は、やはり快体験の度合いを比べる対象がないので、退屈を感じ得ない。世界の二大宗教を信仰する者は共通して、出来事を一度きりのものとして体験し得る。そのことで退屈をも回避する。このことは神を信じず煩悩にまみれた僕らにとっても参考になるのではないか。

神の愛があらゆる出来事を奇跡に変えるなら、人の愛もまた(少なくともときどきは)出来事を奇跡に変えるだろう。慣例通りのパーティを特別なパーティに変えるには、それを誰かのためになにかを祝うパーティにすればよい。みながその人物のこれまでの苦労を思い、彼あるいは彼女に今このときもっともふさわしい贈り物を考える。食材や料理にはゆかりの地や思い出が連想されるものが選ばれるだろう。そうしてパーティのあらゆるありふれた出来事に意味や物語が与えられ、それらは一見よくある感じでありながら一度きりの体験となる。ありきたりのプレゼントにもそれを贈る人の気持ちが込められる。なぜそれでなければならなかったのか、そこにはきっとユニークな理由があることだろう。何度も食べたことがある料理も、それが彼あるいは彼女の故郷の味と知れば味わいも変わる。ただし神の愛が人の信仰と対となってはじめて奇跡を見せるように、人の愛が出来事を奇跡に変えるにはやはりお互いの愛が交換されなければならない。もしお祝いを受けた側の人物が、パスカルよろしく(パスカルはこうした行為をもっとも愚かだと言っているそうだが)「はん、どうせキミたちは気晴らしがしたいのであろう。こんなことはキミたちがキミたちの自己満足のためにやっているのであって、むしろ私がやらせてあげているというのが正しいところだ。私の幸せはこんな茶番と無関係に成立するのでね。」などと冷めた目をしていては、パーティは実に白けたものとなる。みながその愛によって用意した意味も物語もすべてが無駄だったと知れるからだ。こっそり感激に目を潤ませる友を見ることができてはじめて、そのパーティは特別となる。その友人がみなから受けた愛に愛をもって応えたからである。

人間や動物の環世界は容易に変化しないと述べた。環世界拡張能力はなじみの環世界を補強するよう作用する。人間は自らの環世界から逃れられない。そうであれば、独りの人間が世界をありのまま受け入れることなど不可能だ。それでも誰かと一緒ならどうか。駅で長い乗り換え時間を待たされたとき、かたわらに友人がいたらどうだろう。三人寄れば文殊の知恵という。となりにいる友人の環世界には自分の環世界にはないものがきっと見えている。もちろん友人の環世界、ものの感じ方そのものを自らの環世界に取り込むことはできない。けれども人間は言葉や表情で何を見何を感じているかを伝えあうことができる。

さて、かたわらの友人は鉄道マニアなのだった。駅の回りを見渡して彼が言う。実はこの街は河川による水運が盛んだった頃たいへんに栄えた街でね。昔は別の路線が南の大きな街まで引かれていたんだ。ほら、あの丘を見てごらんよ。自動車道にしては立派すぎる切り通しがあるだろう? そこからこの駅に向けてゆるやかにカーブしながら細い道が続いている。あの少し窪んだ林のあたり、道のあるところだけ堤防のようにもりあがっているのがわかるかい? あれは廃線になった線路の盛り土なんだ。列車は坂を上れないからね。楽しそうに語る友人につられて、さっきまでつまらなく見えていた街ががぜん興味深く思えてくる。とっくの昔になくなったはずのものが、現在の風景にこれほどはっきり残っているなんて! それに、ああそうか、それでこの駅はこんな田舎町にふつりあいなほど立派だったのだ。やがて彼の話は鉄道会社の歴史におよんだ。この駅までの路線とここから先の路線はもともと別会社だったんだ。それが未だに乗り継ぎの悪さに影響しているってわけさ。彼の解説を聞くうち、退屈に陥りそうな気分がふっとんでしまった。まったくこんな風に街や鉄道を眺めたことなんてこれまで一度もなかった。

他者の環世界と触れ合うことで、ひょっとしたら僕らはありのままの世界に少し近づける。そしてありふれた出来事をそれまで知らなかった特別なものに変える。そもそも友人がそばにいる時点で話し相手がいるわけだからそれほど退屈しそうもないが、話をすることもまた他者の環世界と触れ合うことにちがいはない。

もちろん本を読むことは他者の環世界と触れ合うことのひとつだ。本は読む者の視野を広げ、ときにはものの見方を変えてしまうことさえある。とは言うものの、興味のない本を読む人は少ない。本を読んで勉強することは退屈に対して思うほど有効ではないだろう。本は、もともと興味のあることに関する知識やものの見方を豊かにしてくれるが、以前から退屈してしまうものごとを急に輝かせてくれることは常には期待できない。人は環世界拡張能力を、なじみの環世界を補強するように使う。同じ出来事を体験しているかたわらの友人の方が、退屈にはよほど有効なのだ。

神を信仰せず、全てに感謝する道徳心も持てず、煩悩を捨てられない、そんな僕らでも、他者と思いやりをかわすことによって、あるいは他者の環世界と触れ合うことによって、ありきたりの出来事を特別なものとして受け取れるようになる。退屈と向き合う方法、それは自分の環世界が他者との触れ合いによってより豊かになり得ると知ることだ。独りで退屈と向き合う必要はまったくないのである。そして「奴隷」となることを避ける最良の方法は、独りだけで完結したまま決断しないことだ。ただし、特定の尺度でのみ人を評価しその評価が低ければ自動的に人を見下すような他者には注意しなければならない。その人間はすでに「奴隷」だからだ。場合によってはテロリズムやカルトに誘い込むものである。その人間から敬意を得続けようとすれば、忠誠や訓練を競う終わりのないレースに引きずり込まれ、同じ「奴隷」となるだろう。

まとめ:生きることにバラは必要か

この感想文では、「退屈」とは「『当面、期待するほどの満足を得られそうもない』という予感」であるとした。したがって「期待」を制御することが「退屈」と向き合うことの鍵となる。人間には言語がある。出来事を異なる観点から眺め、状況を読み替えることもできるだろう。しかしそれには限界があるのだった。人間は動物と同じく自分自身が慣れ親しんだ環世界から簡単には逃れられない。人間の高い環世界拡張能力はなじみの環世界を補強するために使われるのであり、見えないものが急に見えるようにはならないのだ。この限界を突破するものは他者である。人間は他者に向けた友愛が他者の友愛をもって応えられた時、その出来事を特別なものと感じ、比較対象のない一度きりの出来事として体験する。また人間は言語や表情を通して他者の物の見方を知ることができる。そのことによってそれまで見えていなかったものが見えるようになり、退屈な出来事が新鮮なものへと変わる。そうなれば、もはや比較するべきあの出来事・あの満足がないのだから、この出来事がもたらすだろう満足の度合いを期待することはもうあり得ない。その結果、退屈は消えてなくなるだろう。そう、人間は退屈に独りで向き合わなくてもいいのだ。まして退屈がつらいのであればなおさらだ。つらい退屈には独りで向き合うべきではない。それは自らを何かの奴隷へと追い込むきっかけにもなる。

生きることはバラで飾られた方が好い。それも自分で育てたバラならなおすばらしい。だが生きることにはバラよりももっと必要なものがある。それはいっしょに笑いあえる友だ。退屈に倦んだ心の扉をふいに開け放ち、新しい景色を予感させるもののことである。(おわり)

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