2013年12月14日(土)隣町気分で遠い町

  • 最近定例化している月に一度の文化の日。今回も自転車で京都まで行ってきた。

  • (2013年12月17日(火) 午前1時12分3秒 更新)
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隣町気分で遠い町

まさに自転車日和やで!

京都へ行くのにも慣れてきた

このルートにもだいぶ慣れてきた。だんだん土地勘がついて、隣町を走っている気分。でもやっぱり遠い。ママチャリではないけれど、ロードレーサーでもないので、3時間半はかかる。もしこれが夏だと汗だくになって、行った先で何かすることなんてできやしないだろう。ところが汗をかかない冬ならば、気ままにあちこち立ち寄ったりできる。寒い時期こそ自転車旅。

「皇室の名品」展

予定通り11時半頃には岡崎公園に着いたので、国立近代美術館の「皇室の名品」展を見てきた。明治・大正期に、日本の伝統美術を守り立てる目的で皇室が買い上げた作品や、名だたる大家が皇室に献上した作品など、皇室所蔵の名品が、一堂に展示される企画展だ。

展示されていた作品はどれも本当に上質で、特に工芸品の緻密な細工に目を見張った。皇室行事のようすがかいま見られるのも興味深い。のだけれど、全体としてはいまひとつおもしろくなかった。

だって、どれもなんだかお行儀がよすぎるというか、のっぺりすました優等生すぎて…。音声解説によると、いろいろと新しいことに挑戦したりもしているらしいのだけれど、いろんなところに「媚び」やら「忖度」が見え隠れするのがいやだ。日本の伝統工芸・絵画で西洋に対抗し得る質の高い表現が可能だというところを見せつけたい、っていう変な気負いも鼻につく。

それに、明治宮殿を再現って言わはりましてもなあ。京都にはいくらでも本物がありまっさかい。

というわけで個人的には、門外漢が明治大正の日本美術に幻滅を覚えたところで、国立近代美術館の常設展があるってところが、本展最大の見どころだと思う。常設展の作品は、同じ明治大正でも断然おもしろい。前にも見たことあるはずなんだけど、すごく魅力的に感じた。これ、わざとやってたりして(笑)。

平安楽市

岡崎公園で平安楽市っていう手作り市をやっていたから覗いてきた。こういう手作り市って毎週のように京都のどこかでやっているらしい。手作りの時計とか器とか、もちろんケーキなんかも、いろいろ売っていた。

第12回 エコール・ド・東山

そんなこんなで予定外にフリーマーケットを覗いたりしていたら、若干遅刻してしまった。岡崎公園から七条までって案外距離がある。

ルネ・マグリットの絵画のもたらす「気持ち悪さ」

今回のエコール・ド・東山はどちらも割とあっさりした印象だった。一本目は利根川由奈さんがルネ・マグリットの絵画を概説する一時間。有名な作品をスライドで鑑賞しながら、スタイルの変遷や見るものに違和感を抱かせる独特の手法についてわかりやすく解説してくれた。

作品を見ながら、そういや中学高校の時、教科書で見て好きだったなあって思った。マグリットの絵には、中二脳をくすぐる不思議な魅力がある。浮遊する岩に城が描かれていたり、アニメっぽくもある。それでいて静かすぎる画面が不穏な予感を抱かせる。

マグリットは画家ではないと評するひとがいる、という話にも違和感がなかった。彼の絵は、絵画というよりポスターのようだし、画家というよりデザイナーと呼んだ方がしっくりくるかもしれない。マグリットは、いつも山高帽とスーツで通し、絵を描くときもその姿で、アトリエを持つこともなく、自宅のキッチンで絵を描いていたという。

ありふれたフツウの人という記号を常にまとおうとした彼の生き様も興味深かった。利根川さんの言うように、彼が誇示したフツウの下には、危ない精神がひそんでいたかもしれない。

「私」の忘れ方〜西田哲学入門

本日二本目は中嶋優太さんによる西田哲学入門。中嶋さんは二度目の登場。前回は西田幾多郎の哲学がどういう時代に生まれ、そのことにどういった意味があるのかを考える一時間だったけれど、今回は西田哲学にちょっとだけふれてみる一時間となった。

さて時に大正二年(1913年)、21歳の若き倉田百三は悩んでいた。彼は22歳の誕生日に書き上げた「異性の内に自己を見いださんとする心」というエッセイでこう書いている。

「私は生きている。私はこれほど確かな事実はないと思った。自己の存在はただちに内より直観できる。私はこれを疑うことはできなかった。しかしながら他人の存在が私にとっていかばかり確実であろうか。」 彼は独我論に陥り、親友の存在さえも影のように淡いものと見なせることに心からおののく。そして、そのようなたましいのない交渉を続けるよりは友を捨てることを選ぶのだった。そんなとき彼は西田幾多郎の「善の研究」と出会う。

「それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。見よ! 『個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することが出来た。』とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか。」

倉田百三の目が釘付けにされた一節、西田幾多郎が言う「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである」とはどういうことだろう。

中嶋さんによれば、西田はこんなふうに考えたらどうかと提案しているのだという。疑い得るものは存在しないと考えてみよう。我々は物の色、手触り、匂いを感じる。それらの経験は確かに存在すると言える。けれども物そのものは意識の外界に独立して存在すると言えるだろうか。「我らの意識を離れて物其者を直覚することは到底不可能」なのであって、それは経験から推論されたものにすぎないのではないか。

心についても同様だと言う。我々が感じるのは、うれしい、おいしい、悲しい、といった経験であって、心なるものはそれら経験の背後に仮定されているに過ぎず、「我々の知る所は知情意の作用であって、心其者でない」。西田に言わせれば物心の独立的存在はいくらでも疑いうる。

さらに西田が唯一の実在と認める意識現象には所有者がいないという。つまり「私=個人」は存在しない。「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明(あきらか)に独断である。」

中嶋さんによると、西田哲学では「私=個人」を疑う一方で、実在する「私=経験」とはいったい誰なのか、そのことが問われていくのだそうだ。

西田先生なかなかおもしろいことをおっしゃる。その点幸いなことに西田先生ほど古い先生になると、青空文庫で全文読めてしまうのだ。中嶋さんのお話に出てきたところをつまみ食いして読んでみたけれど、ちらちらと気になる文章が目に飛び込んできた。翻訳調ではないのも読みやすい。今度こそ一度読んでみようかな。

エコール・ド・東山の聴講者は、どちらかというと一般の人より研究者の人が多い。それだけに茶話会では自分の問題意識に引き寄せて質問をぶつける場面をよく目にするのだけれど、今日はその真剣さに圧倒された。

自分の中の漠然とした気づき、形のない確信に、なんとかしてなんらかの輪郭を与えたい。そのためのヒントがほしい。自らの内側からわき起こる謎に突き動かされた藁にもすがるようなその熱意! 議論の前提を共有した同じ分野の研究者同士とは異なるコミュニケーションが強いられる中(もちろん不勉強・未熟と切り捨てるオプションはない)、中嶋さんが熱意に応えるべく慎重に言葉を選んでいる様子が印象的だった

学問が一等輝くのは、倉田百三が「活字に釘付けになった」と書いた、あの瞬間にこそあるのではないか。「ああ、これこそ、私の思いつきたかったことだ!」 興奮で涙があふれる。世界が変わる。とりわけ哲学が輝く瞬間は、そんな経験の内にのみあるのだと思う。わかったようなわからないような着地点の見えない空中戦にも、相手にとっての光をさぐる、真摯なコミュニケーションがあったと思う。

その後の百三

ところで、今回西田哲学への案内役を務めた倉田百三のエッセイ。タイトルが「異性の内に自己を見いださんとする心」となっている割に、中嶋さんのお話には異性が出て来なかった。中嶋さん、これってどういうことなんですか?

どうも独我論を克服したことで、彼は他者を求めるようになり、最終的に誰でもいいから女を求めるという展開になるんだそうで。なんだそれ。気になる。で、読んでみた。これまた大正の人なので青空文庫で全文読めるのだ。倉田百三 愛と認識との出発 のはじめから三分の一のあたりに、件の文章がある。

いや、若き倉田百三21歳、独我論に陥ってエゴイストたらんとするあたりから、小難しい言葉遣いの割に、そこはやはりどうしようもなく21歳なのだった。しかも思い込みが激しい。

この頃から人なみすぐれて強烈なる性欲の異常なる狂奔を持てあましていた私にはこの盲目力がいっそう力強く感ぜられた。…この頃私にとりては愛ほど大きな迷妄はなかった。また犠牲ほど大きな生活の誤謬はなかった。

そんな性欲を持て余しつつ、彼は「善の研究」と出会った後、自己があって経験があるのではなく、経験とは我とか他とかいう意識もなくただ実在するのだと思い至る。個人意識は二義的に生じるのであり、独立には存在できず、はじめから欠陥があるのだ。そこで愛をこう理解する。

愛はこの欠陥より生ずる個人意識の要求であり、飢渇である。愛は主観が客観と合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。欠陥ある個人意識が独立自全なる真生命に帰一せんがために、おのれに対立する他我を呼び求むる心である。

で、友達に向かおうと思うんだけど、友には肉が欠けていると嘆く。

私は人格物を憧憬するならば霊肉を併あわせて憧憬したかった。生命と生命との侵徹せる抱擁を要求するならば、霊肉を併せたる全部生命の抱合が望ましかった。この要求よりして私は女に行かねばならなかった。

はあ、そういう理屈で、そうなりますか。。。さすがインテリ。

私は性の問題に想い至ればすぐに胸が躍った。それほどこの問題に厳粛なる期待を繋いでいた。私の天稟のなかには異性によりてのみ引きいだされ、成長せしめられ得る能力が隠れているに相違ない。また女性のなかには男性との接触によりてのみ光輝を発し得る秘密が潜んでるに相違ない。私はその秘密に触れておののきたかった。私は両性の触るるところ、抱擁するところそこにわれらの全身を麻痺せしめるほどの価値と意義とが金色の光をなして迸発するに相違ないと思った。私は男性の霊肉をひっさげてただちに女性の霊肉と合一するとき、そこに最も崇高なる宗教は成立するであろうと思った。真の宗教は Sex のなかに潜んでるのだ。ああ男の心に死を肯定せしむるほどなる女はないか。私は女よ、女よと思った。そして偉大なる原始的なる女性の私に来たらんことを飢え求めた。

21歳、キミは何を言っとるのか。

私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。…私は若さまと嬢さまとの間に成り立つような甘い一方の恋がほしいのではない。生命と生命との慟哭せんほどの抱擁がほしいのだ。私が深く突っ込むとき私はみな逃げられた。気味悪がられた。…私は処女は駄目なんだろうかと思った。

いや、、、うーん。。。そりゃ逃げるだろう。しかしほどなくして彼は恋に落ちる。

恋は女性の霊肉に日参せんとする心である。その魂の秘祠に順礼せんとする心である。ああ全身の顫動するような肉のたのしみよ! 涙のこぼるるほどなる魂のよろこびよ! まことに sex のなかには驚くべき神秘が潜んでる。自己の霊と肉とをひっさげてその神秘を掴つかまんとするものは恋である。最も内面的に直観的に「女性」なるものを捕捉する力は恋である。

リア充爆発しろ!

最後はこう宣言して終わる。

私の今後の生涯はこの恋愛の進展的継続でありたい。私らが恋の甘さを味わう余裕もなく、山のごとき困難は目前に迫って私らを圧迫している。私らは悪戦苦闘を強迫された。ああ私は血まみれの一本道を想像せずにはいられない。その上を一目散に突進するのだ。力尽きればやむをえない。自滅するばかりだ。

百三、、、だいじょうぶか?

悲しいことに実際これが全然だいじょうぶではなかった。ウィキペディアによると後の東大となる一高の文芸部機関誌でこんなこと書いたので、学内の自治組織の検閲にひっかかり、鉄拳制裁を受けることになる。検閲?鉄拳制裁? ほんまかいな、すごい時代だなって思うけど、彼はそのころ肺結核を患っていたため、身体が鉄拳制裁に耐えられないことを恐れ退校するのだった。

そしておそらく大方が予想するだろう通り、熱烈に恋した恋人からもふられてしまう。後に旧制高校生必読の書となったという「愛と認識との出発」の表題は、そのころ書いた「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」から採られている。その文章に曰く。

自己の表現と発情とに覚えず自己を捲き込んでいたような傾きがある。それがために私の思索が混雑し、単純化が精緻を欠き、統一の外に取り残された data があった。たとえば性欲とキリスト教的愛とが混淆し、彼女以外の人に内在する私の自己が取り除かれたりしていた。その部分から私の精神生活は崩れていった。

うんうん。。。なんか今も昔も変わらぬものだね。。。

私も一時彼女以外のものが皆一様に、無関心に見えて、長い愛の歴史のある友が顧みられないことがあった。今にして思えば友がそのとき立腹したのみならず、私が愛(ラブ)の人であることを否認したのは根拠があった。甲には理由もなく一朝にして冷淡となり、乙をばにわかに狂うがごとく愛するというがごときは、人に対して愛という感情の働く動因と初めより矛盾せるものである。

そうだね。。。

私は切に与うるの愛を主張したい。愛は欠けたるものの求むる心ではなく、溢あふるるものの包む感情である。人は愛せらるることを求めずして愛すべきである。…私はこの一文をして「愛と認識との出発」たらしめたい。偉大なる愛よ、わが胸に宿れ、大自然の真景よ、わが瞳に映れかし。願わくばわが精霊の力の尽きざるうちに、肉体の滅亡せざらんことを。

百三!!!・゚・(つД`)・゚・

本日の中嶋優太さん

ちなみに本日の中嶋優太さんは、丸めがねに、ベレー帽、ハリーポッター風マント、袴風ズボンに、大正風革靴でした。これがまたすごくはまってる。たぶん歳取ってもはまってるだろうなと思えるのがすごい。前も書いたけど、ファッションに限らず、自分ならではのしっくりくるスタイルをみつけて、それを迷いなく貫いているように見える人って憧れる。

ご自身で「(キャラを)作ってます」っておっしゃったのがちょっと意外で、やっぱり西田哲学に共感されているだけに「私=個人」を確かなものと感じられず、それゆえ逆に固定されたユニークな個性をいつも身にまとっている方が安心する、みたいな心理があったりするんだろうか。まあ、単に好きなだけでも自己分析しちゃうのがインテリってものだろうけど。

ともあれ、前回、中嶋優太さんとフルネームでにっきに書いたところ、大阪のアクセスポイントからちょくちょく名前と「哲学」とかの組み合わせで検索して記事を見る人がいるので、おそらく講義を持っている大学にファンがいるのでしょう(ご本人はエゴサーチするタイプに見えないしお住まいは京都だそう)。大学には仕事用の格好で行ってるらしいけど、年齢不詳の風貌、柔和で聴き心地のいい催眠ボイス、落ちついた物腰、たった二回の聴講でも不思議な魅力を感じるひとなので、気になっている女子学生さんもいらっしゃるにちがいない。だって、こんなアクセス数の少ないにっきに発表者の名前で検索してくる人ってそんなにいないから、アクセス解析で目立つんだよね。

ということで、うっかりこのにっきを目にした学生の諸君、中嶋先生に私服で教鞭をとるようリクエストするとよいよ! 輪をかけて萌えキャラです☆

カフェは全席禁煙がいい

御池通の北側、二条通を走ってたら、「カフェ ビブリオティック ハロー!」っていうふんいきのいいカフェをみつけたんだけど、聞いたら全席喫煙可だった。ということは割と以前からあるカフェなんだろう。最近できたお店だと最初から禁煙にすることが多いと思う。

そりゃ既存のお客から分煙とか禁煙の要望は出ないと思う。なぜかと言えば、タバコが苦手な人はそもそも客にならないから。でも僕が店内覗いたときは誰も吸ってなかったし、禁煙にしたら去って行く人ってそんなにいるのかな。お店にとって禁煙にすることはそんなに痛手なんだろうか。

大阪京都をはじめ関西の飲食店は受動喫煙防止の取り組みが遅れていると思う。「禁煙ですか?」って聞いて「だいじょうぶですよー。全席喫煙可能ですよ。」ってにっこり言われる時点で絶望する。全然だいじょうぶちゃいますから。

健康増進法の第二十五条置いときますね(´・ω・`)つ

健康増進法

第二十五条  学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない。

タバコの煙が生理的に苦手なものにとって、どんなにお店の雰囲気よくても一人でも喫煙者がいると、すべてが台無しになる。だから、僕がここをカフェ使いをすることはないだろうけど、併設されているパン屋のパンはおいしかったのでまた寄るかも。

締めは「縁蛸〜ブログルド」

ということで今日も締めは綾小路烏丸「縁蛸〜ブログルド」。マスターとのんびりしゃべって、9時頃帰路へ。自転車で夜道を3時間半。0時すぎにやっとおうちにたどり着いた。京都行きにも慣れてきてすっかり隣町気分だったけど、やっぱそれなりに遠い。疲れた。でも冬しかできないのでまた近いうちに自転車でうろうろしたい。

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