2013年10月16日(水)岩船白山神社でおかげ踊りを見てきた

  • 岩船寺のそばの白山神社で毎年奉納される「おかげ踊り」を見てきたよ。

  • (2013年10月17日(木) 午後4時26分37秒 更新)
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岩船白山神社でおかげ踊りを見てきた

おかげ踊り。

お伊勢参りのなごりだそう

おかげ踊り」は江戸時代盛んになったお伊勢参り(「お蔭参り」)のなごりなんだそうな。とりわけ「幕末には全国で伊勢詣でが流行し、伊勢参りの人たちお参りの行き帰りに踊り狂」い、「関東では一人一人がバラバラに踊る「ええじゃないか」が流行し、関西では集団で輪になっておどる 「おかげ踊り」がおこなわれた」らしい。昔はもっとにぎやかだったんだろうね。

ひとしきり踊って20分ぐらいで終了。平日の昼間ということで若い人や子どもが参加できないせいか、思ったよりこじんまりとしたお祭りだった。町の広報さんが取材しているのを横で聞いていたんだけど、地元の人曰く、小学生が多かった頃は子どもたちが縦笛(リコーダーのこと?)で演奏に参加したりしていたのだとか。

若い人が少なくなって、お祭りを続けるのがたいへんらしい。でもそれなら10月16日にこだわらず、「体育の日」の連休にやったらだめなんだろうか。踊りの起源からすると、白山神社とあんまり関係なさそうだし、10月16日にやることにそれほど意味があるようには思われないんだけどどうなんだろう。

連休にやれば、若い人も帰って来られるし、孫や地域の子どもたちも参加しやすいだろうと思う。気持ちのいいハイキングシーズンでもあるので、観光客を呼び込むイベントに育てることも可能かもしれない。廃校になったこの近所の小学校の替わりに、統合先の小学校でお祭りのことを取り上げてもらうのもいいだろう。などと、勝手なことを思った。

気になったので、家に帰ってから「加茂町の歴史と文化」っていう加茂町史が載ってる本をめくってみた。この本によると、「ええじゃないか」の終息とともに「おかげ参り」が廃れ「おかげ踊り」もいったん踊られなくなったのだけれど、大正、昭和の即位式の際には南山城地域のあちこちでお祝いとして盛大に踊られたらしい(「ええじゃないか」が終息したからというよりも、明治期に伊勢神宮の性格が変わった為に「おかげ踊り」も廃れたということなのかもしれない)。さらに時は流れて戦後、昭和四十年代になってから、昭和の即位式で踊った記憶を元に復興したのが今の「おかげ踊り」とのことで、どうも10月16日に大した意味はなさそうだった。

一方で「木津川市観光ガイド>観光だより」にはこうある。

中世頃から行われてきたとされる歴史ある行事。今から270年~280年前、山城地方を中心として大飢饉が3年も続いたとき村人は、伊勢の大神宮に願をかけ五穀豊穣の恵みを受けることが出来、感謝の気持ちを表した踊りが生まれたとも、度重なる洪水、飢饉に見舞われ、やる方なき気持ちを押さえるため、日常生活からの一時の解放等を願って氏神等に出かけて踊ったり、近村等に踊りに行ったのが始まりとも。

Wikipedia によると「お陰参り」はこんなかんじだったらしい。伊勢へ向かう人々がいれば必ずこの近くを通っただろうから、感化された村人が伊勢へ向かうことも多かったろうと思う。

1771年明和8年)
4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。
ピーク時には地元松坂では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
  • 参詣者:200万人
  • 当時の日本総人口:3110万人(1750年)
  • 発生地域:山城宇治
  • 期間:4月~7月(5ヶ月間)
  • 経済効果:
    街道沿いの物価が高騰した。白米1升が50文が相場のときに、4月18日には58文に上がり、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がった。わらじは5月3日で8文だったものが、5月7日には13-15文になり、5月9日には18-24文に急上昇した。
    街道沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれた。無一文で出かけた子供が、を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。

いやはや、こんなことが何年かおきに発生していたなんて信じられない。おもしろいなあ。想像を絶する熱狂だね。岩船の「おかげ踊り」が江戸中期のお陰参りに端を発しているのは確からしい、という気はする。

やはり10月16日は、江戸中期からの伝統なんだろうか。どっちにしろそんなに深い謂れはなさそうな気はするんだけど。うーん、手持ちの資料とネットの情報ではいまいちよくわからないな。

昭和四十三年ごろのようす。

昭和四十三年ごろはこんなかんじだったらしい。拍子木の他、横笛もいる。

歌詞はこんなかんじ。

歌詞はこんなかんじ。だれがいつごろ何の為に作ったんだろう。お囃子にもなんか意味あったりするのかな。「ええじゃないか」が流行った頃は、あちこちで「おかげ踊り」を踊り狂っていたらしいから、当時はもっと早めのテンポだったかもしれない。「アレワイサッサ、コレワイサッサ…」のあたりなんかは、みんなで囃し立てて大いに盛り上がっていたかもしれないね。

近隣の「おかげ踊り」

井手町玉津岡神社の「おかげ踊り」。最初のお囃子が岩船のものと似ている。

城陽の「おかげ踊り」。こちらは「ええじゃないか」の影響が明らかだね。

大和高田で近年はじめられたおかげ祭りの「おかげ踊り」。昭和アレンジ入ってるけど、笠といい雰囲気は岩船のものと似ている。岩船のおかげ踊りも元々はこういうにぎやかな調子で演奏されてたんじゃないかなあ。

ふーむ、どうやら江戸時代中期あたりからずっと南山城では「おかげ踊り」が盛んで、何かあればみんなで踊っていたらしい。ということで、うちの近所の盆踊りも河内音頭よりは「おかげ踊り」をやった方がいいと思った(笑)。

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