2015年4月11日(土)ドナドナ 805 rossocross

  • 赤い DOPPELGANGER 805 rossocross を京都へ引っ越してきた方にお譲りしましたドナドナ。

  • (2015年4月26日(日) 午後11時5分48秒 更新)
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今までありがとね。

引き取られて行く赤い自転車。今までありがとね。

巨椋池で走行トラブル

この前、近所でタイヤに釘が刺さってパンクしてしまい(自転車を停める前は空気が抜けてなかった気がするのでいたずらの可能性を疑っている)、後輪のチューブを取り替えたんだけど、巨椋池の埋め立て地にさしかかったところで路肩のブロックに乗り上げた直後、後輪にトラブル発生。タイヤが傾いてフレーム(チェーンステー)に接触し、前に進めなくなった。押し戻すと傾きが治るものの、自転車に乗ってペダルを踏むと体重で再び傾いてしまう。

急遽 iPhone で自転車屋をさがした。2キロほど離れたところにサイクルベースあさひがあったので、自転車を押しながら走った。どうやらチューブを交換したとき、後輪を取り付ける際、締め付けるべきところを間違えていたみたいだ。ボルトとナットのボルト側だけを締めていた。クイックレバーのない自転車でタイヤを取り外したのが初めてだったので、反対側にナットがあるのをすっかり忘れていた。

要するにぐらぐらの状態でしばらく乗っていたわけで、考えてみたら恐ろしい。サイクルベースあさひで、後輪を締めなおしてもらうと、ちゃんと乗れる状態になった。ボルトを締めただけだからとのことで、嫌な顔もされず、料金も取られなかった。へたに高級な自転車屋より、スタッフさんのかんじがいいと思った。

そんなこんなで、京都に着いたのはギリギリ。それでも最近お気に入りの Bake House INOUE でパンを買って、ハイアットリージェンシーのお庭の上にある東屋でランチにしました。

この自転車とは今日でお別れ。

この自転車とは今日でお別れ。

今月のエコール・ド・東山

ということで、今月のエコール・ド・東山は?

死を覚える〜M.ハイデガーの思想から〜

本日一本目は松本直樹さんによる、「死を覚える〜メメント・モリ」ことと「不安」という気分の関係について考える小一時間。以下はレジュメをざっくりまとめつつ雑感を加えたもの。

「ひとは結局、いつかは死ぬものだ」。この言葉には、死について「覚える」べきすべてがあるという。すなわち、いずれは必ず訪れる死は「確実」であり、いつとは定めなくやって来る死は「不定」であり、死は「終末」である。そのうえでハイデガーは死という言葉に二つの意味があると指摘している。一つは、常識的な死のイメージにあたる「死んでしまうこと(Ableben)」。もう一つは、自らの死に臨んであるという存在の仕方を表す「死んでいくこと(Sterben)」だ。

人は死んでしまわない限りは不断に死んでいく。どういうことだろう。ここで「不安」という気分が取り上げられる。「恐れ」とは違い、「不安」の対象は完全に「不定」だ。つまり「不安」とは、私たちの存在そのものが、部分的にではなく、まるごと脅かされて起こる。まるごと脅かされるというのは「死の不安」以外であり得ない。したがって、「不安」とは常に「死の不安」である。「不安」において、死は、まさに「死んでいくこと」として、現にここにある、というわけだ。

注意しなければならないのは、「死の不安」は未来の死に対する「恐れ」ではないことだ。不安は特になんでもない状況においても起こりうるのである。

以上のような議論をふまえて、松本さんはこう結論づける。私たちは「いつ死んでもおかしくない」という言葉に、「死んでいくこと」は「いかなる瞬間にも」起こりうる、ということを、感じ取っているのだと。

うーん。ハイデガーの思想を紹介する別の議論でも感じたことだけど、ハイデガーの推論は推論の過程を聞いているうちは、ふむふむなるほどと思うものの、いざ着地したところで、え?それってそういうものだったっけと、何かだまされたような気分になる。

たとえば僕の素人考えでは「不安」は「違和感があるのにその原因がわからない状態」だ。違和感の原因が分かれば「不安」は「恐れ」あるいは「怒り」や「悲しみ」になるだろう。「不安」と「恐れ」は違うといっても、「不安」が「恐れ」や「悲しみ」など対象が存在する感情の前駆状態であるということはあり得そうに思う。両者はすぱっと分けられるものなんだろうか。「不安」=「まるごと脅かされる」=「死の不安」というところに何か飛躍があるように思う。

いやいや、ハイデガーが言っているのは、そういう、いずれ対象がみつかって別の感情へ遷移する不安じゃなくて、もっと根源的な不安なのだと言われたところで、そうなるとそれって相当特殊な不安であって、いかなる瞬間にも起こりうるものなんでしょうかと言いたくなる。ハイデガーを読んだことはないけれど、たぶん今回の話の肝は「不安という気分」の方にあって、ハイデガーは何かこの気分について言いたいことがあって、「死」を持ち出しているんじゃないかなと思った。ハイデガーさんの思想を紹介する議論は、いつももやっとするのであった。

ピエール・ルイジ・ネルヴィの挑戦〜建築家とエンジニアという立場から〜

本日二本目は木村智さんによる1960年前後に活躍した建築家ネルヴィのめざした建築化像をに迫る小一時間。木村さんがネルヴィに興味を持ったのは東日本大震災だと言う。実際に被災地を訪れ、そこかしこに建徳と土木の分業が進んでことによる弊害が現れているように感じたのだそうだ。

さて、共和制ローマ時代の建築家ウィトルウィウスは、その著書「建築十書」で、建築家はプランニング、構造、造詣表現のすべてに通じているべきで、実技と理論のいずれか一方が欠けていてはよくない、というようなことを書いたらしい。

ネルヴィは、いわば建築家の原点、そのウィトルウィウスの言う建築家像に立ち返り、建築・構造・施行のすべてをやろうとした人で、木村さんは建築がこれからあるべき姿のヒントがネルヴィの活動にあると見ているようだった。まだ研究はまとまっていないとのことだけど、分業化・専門化の果てに、全体として本当に必要とされているものとは違うものができあがってしまうというのは、現代社会のあちこちにある問題だろう。何かヒントがみつかるといいなと思う。

ドナドナ、そしてこんにちは。

なぜ今日ドナドナだったかと言えば、新しい自転車を買ったからなのだった。京都のお店で買ったので、赤い自転車とお別れしたその足で、新しい自転車を引き取るという寸法!

古い方の自転車をどうするかは、ずっと悩ましく思っていたところで、たまたまエコールの常連の方でこの春から京都に引っ越す方がいらしたので、お譲りすることにした。京都は自転車があればだいたいどこでも行けるしね。もしないなら便利だろうと思って。

誰かの役に立つ形でお別れできたのですごくよかった。ありがたや。

謎のお菓子

僕としては、あちこち傷だらけだし、もらってもらえるだけで満足だったのだけれど、なんだか申し訳ないくらい気を遣っていただいて、お菓子だとかお心遣いだとかいろいろいただいた。その中に謎の和菓子が(笑)。もちもちしててお腹が膨れる甘いお菓子。家に持ち帰ったらなぜか母がしょっちゅうつまみぐいして、割とすぐになくなった。気に入ったのかもしれない(笑)。

そしてこちらが新しい自転車! ドロップハンドルは初めてだったから不安だったんだけど無事家まで帰れました。くわしくはまたいずれ。

新車だぜ!

新車だぜ!

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