2013年11月9日(土)京都市内は自転車圏!(キリッ

  • 肌寒くなってあまり汗をかかずに済むようになったから、ひさびさに自転車で京都まで行ってきた。

  • (2013年11月11日(月) 午後1時14分47秒 更新)
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鴨川に白鷺の群れ

鴨川に白鷺の群れがいた。

難題!伊勢田〜観月橋

京都府の南の端から京都市へは、京都八幡木津川自転車道という、木津側と桂川の堤防を走るすばらしい自転車道があるんだけれど、東山や京都の中心街に出るには遠回り。くわえて川沿いということで、強烈な向かい風に悩まされることも多い。

そこで、旧道や歩道の完備した道をたどって、京都盆地の東側を行く道を考えてみた。難題は、伊勢田から観月橋の区間。ここは車の通行量が多い上に歩道が狭く、自転車で走りにくい。今回は、伊勢田駅を過ぎたところで左に曲がり線路を渡って、巨椋湖(池?)を埋め立てた田んぼをつっきってみることにした。実際走ってみると、車がほとんど通らず気持ちいい道だった。

今昔マップで見るとかつて京都盆地の真ん中に巨椋湖があったことがわかる。

道すがらみつけたもの

車や電車と違って自転車だと道すがらいろんなものが目に入って来るのが楽しい。

お祭りの抽選で二等が当たった

東福寺近くの神社でお祭りをしていたので立ち寄ってみた。法被に股引きの人がたくさんいて、みなさん楽しそう。

六道珍皇寺

開いている時間に前を通ったので、中を見学してきた(境内に入るだけなら無料)。

清水三年坂美術館「刺繍絵画の世界」

4月に聴講した第6回 エコール・ド・東山で紹介された刺繍の名品が、清水三年坂美術館 特別展・企画展で見られそうに思ったので行ってみた。清水三年坂美術館入り口前のスペースに自転車を駐輪するのは問題ないとのこと。下記は展示案内の引用。

 明治時代、京都を中心に絹糸の刺繍で描かれた絵画作品が大量に作られていた事を知る人は少ない。当時の日本は先進諸外国から新しい技術を導入する為、外貨の獲得が急務であった。工業製品を持たない日本の輸出商品の中心は蒔絵、金工、陶磁器、七宝などの工芸品であったが、その中に刺繍絵画も含まれていた。特に京都では西村總左衛門(千總)や飯田新七(高島屋)ら呉服商が中心となり、大規模に輸出を行なっていた。彼らは岸竹堂、今尾景年、竹内栖鳳ら京都画壇の画家達に依頼した下絵を元に、さまざまな色に染められた絹糸を用いて一針一針刺繍を施し、精緻な絵画作品を制作した。絹糸の持つ独特の輝きは絵具で描いた絵画とは全く異なった質感を生み、見る人を魅了した。それらの作品は造営中の明治宮殿にもいち早く導入され、宮殿の壁や部屋を飾った。欧米の王侯貴族達の間でもその質の高さと美しさが評判になり、多くの作品が欧米の宮殿に納められたが、残念な事に紫外線による退色や虫喰いなどが原因で多くの作品が消失してしまい、よい状態で現存する作品はごく僅かである。

第6回 エコール・ド・東山で見たスライド写真ではピンと来なかったけど、実物は本当にすばらしかった。これはすごい。実物を見ればきっとびっくりすると思う。輸出用工芸品と見なされ、芸術として評価されてこなかったために、作品が散逸しているらしいことが残念だ。

細い絹糸で描かれた刺繍絵は、見る角度によって色合いを変え、まるでホログラムのように立体的。刺繍は、とりわけ鳥の羽毛や動物の毛並みと相性がよく、視点を動かすと身体の凹凸に沿って毛並みが光り、絵の中で生きているかのようだ。水の表現にも目を見張るものがあった。ある視点から見ると波頭だけが鮮烈に輝く海を描いた刺繍、水鳥を浮かべきらきらと光る水面、絹糸の反射による効果が計算し尽くされている。当時の職人のものすごさを感じた。

ちなみにこの特別展は11月17日まで。入館料は500円。会期残りわずかなのでおはやめに〜。

第11回 エコール・ド・東山

何ヶ月かぶりエコール・ド・東山を聴講してきた。今日は思い向くまま寄り道していたら思ったより時間がかかってしまったので、お昼ご飯を食べそびれてしまった。そこで、フランスと日本の血を受け継ぐ某幼稚園児に倣い、フランスの子ども流に、会場にあった角砂糖をコーヒーにひたしておやつにした。あら、案外いけますわね、これ。なかなかおいしい。血糖値上がった。

進出資料に見る慶長遣欧使節

本日一本目の発表は小川仁さんによる慶長遣欧使節のお話。慶長遣欧使節は伊達政宗がメキシコとの通商などを目論みヨーロッパに派遣した使節だ。彼らが太平洋横断に使ったガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」は、スペイン人の指揮で日本人の大工が日本の尺で建造したそうだ。沈没船から引き上げた大砲も備えられていたらしい。

慶長遣欧使節については、シピオーネ・アマンティという当時の学者が書いた「伊達政宗遣欧使節記」という文書があり、第一級の資料とされているのだけれど、彼がなぜそのような文書を作ったのかよくわかっていなかったのだという。

そこで小川さんがアマンティの書いた文書をしらみつぶしに調べてみたところ、その中にコロンナ家を誉め称える文書があったそうで、これはコロンナ家と何か関係がありそうだぞとアタリをつけ、今はイタリアの修道院にあるコロンナ家の文書館を探してみたら、、、大当たり! 遣欧使節に関わる書簡などが多数みつかったとのこと。中には和紙とおぼしき紙に書かれた書簡もあり、もしそれが日本の和紙なら慶長遣欧使節が持ち込んだ可能性が高いそうだ(和紙かどうか詳しい分析をしたいもののイタリア側から持ち出しを拒否されたので日本側から分析しに行かなければならず、なんとか分析できないかあちこちに協力を打診しているとのことだった)。

これは後の茶話会で聞いた話だけれど、和紙じゃないかと言い出したのは、コロンナ文書を管理する修道院の修道士だったそうで、日本人よりイタリア人が興奮していたらしい。「おお、うちの文書館やっぱすげーっ!」ってかんじだったのかな(笑)。発表は15ページにわたる充実のレジュメと資料を駆け足で解説するもので、内容自体興味深かったけれど、茶話会で伺った研究の裏話もおもしろかった。

そもそも修道院の宿坊に泊まらせてもらえることになったのは、下宿先の世話好きなマンマが勝手に頼んでくれたんだそう。今日着てらしたスーツもマンマが知り合いのお店で選んでくれたものなんだとか。イタリアの肝っ玉マンマすごい! 修道院に足しげく通ううち、キミは勉強熱心だからぜひ朝のお勤めにも出なさいと言われ、5時半からのお勤めにも参加せざるを得なくなったエピソードも秀逸だ。とは言え信者でもないのに聖体拝領に参加しようとしたら怒られたそう。何か一線はあるみたい。研究の裏に人間関係ありだね。

さて、伊達政宗期待の慶長遣欧使節、どこからも体よくあしらわれ、外交交渉としては不調に終わったのだという。宣教師の情報網によって、徳川幕府と伊達政宗の関係や、使節の出発後に禁教令が出されたことなど、使節の実態が的確に見抜かれていたからだ。それにしても宣教師達がもたらした情報には舌を巻く。

シピオーネ・アマンティの「日本略記」中の「博物誌」にはこんなことも書かれているらしい。

  • 日本人は名誉、礼節を非常に重んじるため、さまざまな儀式や場面において、礼節を持った言葉遣いができるように、賛辞の例文集のような本を使って勉強する。
  • 年齢の違いや、貴賎、男女の違いによって、言葉遣いは異なり、その場にふさわしくない言葉遣いをすると嘲笑の的になる。

えー、日本人なんだかあんまり変わってないようで。。。 当時の日本人が気にも留めなかった習俗、書き言葉に残らない話し言葉の発音などを、宣教師達の報告から知ることも多そうだ。実際、当時作られた辞典を元に当時の発音が復元されることは少なくないとのこと。ヨーロッパの宣教師や有力貴族の情報ネットワークによって集められた慶長遣欧使節や日本に関する記録がどこかにまだ埋もれているかもしれない。小川さんの今後の研究にも期待したいと思う。

ジャクソン・ポロックと書芸術

本日2本目は筧菜奈子さんによるジャクソン・ポロックと書芸術の関わりを考察する発表。ジャクソン・ポロックといえば、画面一面にまんべんなく絵の具をまき散らしたような絵「オールオーヴァー」が有名だけど、僕自身は去年「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が開催されたとき、ぶらぶら美術博物館で取り上げられていたのをテレビで見たくらいで、よく知らない。

筧さんによれば、ポロックは初期作品の頃から文字に関心があったようで、絵の中にアルファベットや数字をちりばめたような作品がいくつかあるそうだ。オールオーヴァーの初期にも文字が描かれているものがあるらしい。それが黒一色で描くブラックペインティングの時代になると明確に東洋の「書」の影響が現れてくる、ように見える。ポロックは幼少期、近くに住んでいた日本人家族と交流があり、縦書きの新聞や手紙の文字に関心を持っていた、という証言もあるそうだ。

にもかかわらず、書芸術がポロックや抽象表現主義に与えた影響はこれまであまり語られてこなかった。というよりも、ある野心により隠蔽されてきたのだという。第二次世界大戦後、世界の覇者となったアメリカは、芸術でも世界の覇者となることを夢見た。中でも影響力のある批評家グリーンバーグはアメリカ独自の芸術文化の形成をめざし、かつ、アメリカの芸術をヨーロッパ芸術の正統なる後継者と位置づけることに腐心した。

そのために、グリーンバーグ一押しのアメリカ人芸術家ポロックは、ピカソの平面分割に影響されそれをさらに発展させた芸術家であらねばならなかった。それゆえ書芸術からの影響は意図的に否定され続けてきたのではないか。実際、ポロックの作品には遠目に書と見まがうものがたくさんあるようだ。ぶらぶら美術博物館でもちらっとそんな感想が話されていたような気もする。

書芸術へ近づいたブラックペインティングの時代になると、ポロックは「素質をなくした」とまで酷評されたのだそうだ。その後ほどなくしてポロックは自殺まがいの無謀運転で事故死してしまう。

最後に質問できたので、筧さんにどの絵が好きか聞いてみた。答えはポンピドゥセンターにある The Deep という作品。実際に見ると、暗くぼんやりと開いた黒い裂け目に、細く白い線がちらちらとうごめいているように感じられるそうだ。なるほど、これはかっこいいな。ウェブ上の画像で見ても底知れぬ深淵を感じさせる。筧さんには、自分が好きなブラックペインティング時代の作品が不当に貶められている悔しさもあるのかなとちょっと思った。

前にフランスを旅行した時ポンピドゥセンターにも行ったのだけれど、まだ明るいし入れるだろう思ってあの印象的なエスカレーターを上がったら、もう閉館だから帰れと身振りで追い返された。6月で日が長かったから油断していた。先にこんな話を聞いていたら、別の日に無理してでも観に行ったろうね。行っておけばよかった。

綾小路「縁蛸」

毎度のことながら締めは縁蛸です。おいしく食べて、8時頃帰路についた。帰りは寄り道しなかったので2時間半ほどで家にたどり着いた。

Map.

写真の位置はEveryTrail版でどうぞ。

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