2015年5月9日(土)調子に乗っていらんこと言うと帰り道凹むなりよ

  • の巻! ということで月一文化の日です。

  • (2015年5月15日(金) 午前2時20分8秒 更新)
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本日のランチも Bake House INOUE☆

もう Bake House INOUE が京博界隈に出かけた時の定番になっている。やっぱりきのこのラタトゥイユパンが好きだな。はずせない。

今月のエコール・ド・東山

ということで、今月のエコール・ド・東山は?

機械と人間の境界〜人造人間ゴーレムの伝説〜

本日一本目は中岡翔子さんによる、旧約聖書から押井守のイノセンスまで、人造人間ゴーレムの系譜をたどる小一時間。

「ゴーレム」はもともとはユダヤ教に登場する人造人間で、土から人の形を作り魂を吹き込んだものを言うのだそうだ。旧約聖書に「ゴーレム」という言葉が登場するのは詩編の一節にある「あなたの目がゴーレムとしての私を見られた」という部分だという。ここでの「ゴーレム」は「未熟なもの」「幼虫」などの意味で、現在でもイスラエルのヘブライ語では「ゴーレム」がこの意味の日常語として使われているとのこと。

神の未熟な似姿としてのゴーレムは、いつしか人造人間を意味するようになり、16世紀にドイツのユダヤ人が自分たちの下僕としてゴーレムを作り出す物語を伝え始めたのだそうだ。17世紀になるとポーランドのユダヤ人によって、ゴーレムが世界に危害を加えるという伝承が加えられ、20世紀にはプラハのユダヤ人がユダヤ人の守護者としてのゴーレムを伝えるようになったのだという。

19世紀には、グリム兄弟のヤーコプ・グリムもゴーレム伝説をキリスト教社会に紹介している。それによると、ユダヤ人達は粘土またはにかわで人型を作りシェム・ハ・メフォラシュと唱えると人形は生命を得るとされる。ゴーレムは日ごとに大きくなり、額に書かれた「真理=אמת」の文字を一文字消して「死=מת」に買えると土に還るという。ゴーレムが大きくなりすぎてあわてて土に戻したために、その土塊につぶされて死んだ男の伝承もあるそうだ。

中岡さんによると、近世のキリスト教社会は、そんなゴーレム伝説を、ゴーレム伝説そのものよりも製造過程に着目して受容したのだと言う。時は中世が終わり科学革命のまっただ中、人を動かすものは魂ではなく、人間によって操作可能なエネルギーだとする考えが現れるようになっていた。18世紀フランスの哲学者ド=ラ=メトリは人間機械論の中で「人体はみずからゼンマイを巻く機械であり永久運動の生きた見本である」とまで書き、精巧な自動人形も数多く作られた。当時、ゴーレムは現在のロボットのような存在として想像され、受容されていたようだ。

さて翻って人間はどういう存在だろう。ゴーレム=ロボットとどうちがうのだろうか。中岡さん曰く、現代日本のロボット工学では、ジェミノイドを開発するロボット工学者の石黒浩や、ジェミノイドと人の演劇を試みる平田オリザが、「人間に心はない」と言っているそうだ。一方でサブカルチャーの分野では「人にはゴーストがある」としているのだという。

え? ゴースト? それって。。。

ここからは、漫画版ナウシカでナウシカが巨神兵につけた名前「オーマ」がユダヤのゴーレム(未熟/退治)と似た意味「無垢」を持っていたことが示され、未熟な子どもしか操縦できない人型決戦兵器エヴァンゲリオンもまた未熟なものとしてのゴーレムを受け継ぐものであることが示唆される。

そして押井守「イノセンス」のハラウェイ検死官のセリフが引用される。

ハラウェイ検死官「子供はは常に人間という規範から外れてきた・・・つまり確立した自我を持ち、自らの意志にしてがって行動する者を人間を呼ぶならぱね。では人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか? 明らかに中身は人間とは異なるが人間の形はしている・・・。女の子が子育てごっこに使う人形とは実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない・・・」

トグサ「一体何の話をしているんです」

ハラウェイ検死官「つまり子育ては人造人間をつくるという古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった。そういうことにならにいかと言っているのよ」

お、おう。すごいところへきた。アニメのキャラのセリフが古典文学の登場人物が語るセリフと同じように分析されると言うのは新鮮。

今月のエコール・ド・東山

キム「人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらし。そして・・・その種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか、つまり、人形或いは神においてしか実現しない。」

キム「人形の不気味さは何処から来るのかと言えば、それは、人形が人間の雛形であり、つまり、人間自身に他ならないからだ。人間が、簡単な仕掛けと物質に還元されてしまうのではないかと言う恐怖。つまり、人間と言う現象は、本来、虚無に属しているのではないかと言う疑惑。」

しかし、これってハイヴリッドのみんなで話すヲタトークの高級版じゃないか。きたこれ。ということで、なんかうれしくなって調子に乗ってしまい、いまいちつつきどころを間違った気がする。中岡さんは、楚楚としたお嬢様風の雰囲気をかもす方なんですが、押井守を分析すると言う意外性の持ち主でもあり、これは実のところ「立喰師列伝」とか「紅い眼鏡」あたりも押さえている強者では? ロボットも産総研のパトレイバーもどきとかしっかり押さえてるのでは? と思ったんだけど、中岡さんはそんなことよりもやっぱりゴーレムの宗教的な意味合いに興味がおありのようで、完全に間違えた。

個人的に石黒先生の仕事はよくわからんと思っていて、そのへんどう評価してらっしゃるのか聞きたかったのだけど、いや別に石黒先生をdisりたいのではなく、あれをどう理解したらいいのか教えてほしかったのです。が、その観点自体、失敗だった。この日の数日後、人前でしゃべるかもしれなかったので、その練習も兼ねて、知らない人の前でなるべくべらべらしゃべっとこうと意識していたせいもあって、いらんこと言い過ぎた。そんなときは、後から自己嫌悪に陥るからつらい。。。

とまれ、漫画版ナウシカとイノセンスを復習したくなった。イノセンスではお釈迦様の引用も印象に残ってる。「孤独に歩め 悪を成さず 求めるところは少なく 林の中の象の様に」。ええ、まったくです。

日本語に見られる否定の多様性

本日二本目は久保圭さんによる、日本語における直感的な言葉の使い分けが、どんな法則に則って行われているのか、「不」「無」「非」「未」など否定接頭辞の分析を例に考える小一時間。似ているけども言葉が生き残っているのには何か理由があるのだ。

結論から言えば、次のようになる。

  • 「不」は、プラスの意味があり、かつ、段階性のある言葉、あるいは、プラスの動作(「〜する」と言える)を否定する。/例=「不得意」「不採用」など
  • 「無」は、存在を否定する、あるいは、プラスの意味を感じにくい動作(〜する)を否定する。/例=「無理解」「無呼吸」など
  • 「非」は、カテゴリーを否定する。もうひとつのカテゴリーに入れる。/例=「非会員」「非現実」など
  • 「未」は、プラスの動作を否定するが、「不」と異なり、先に変化があり得る含みがある。/例=「未解決」「未成立」など

発表ではいろいろ具体例を検討しながら、謎解きのように話が進んでおもしろかった。ことばの分かれ目は、世界の分かれ目なのだ!

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