2013年1月23日(水)國分功一郎「暇と退屈の倫理学」の感想文
環世界
「環世界」とは、19世紀半ばから20世紀半ばまでを生きた理論生物学者ユクスキュルが提唱した概念で、個々の生物が生きる、それぞれにとっての時間と空間のこと言う。
たとえばコウモリは、音波の反響によってものの位置を正確に把握し、暗闇の中なんなく障害物を避け自由に飛び回る。これは人間にとっては驚異の能力だが、コウモリにとってはなんでもないことだろう。おそらく彼らには暗闇の中でも周囲の空間が音の反響として見えている。ただしそれは、人間にはまったく想像できない感覚だ。
人間から見ればじれったいほどゆっくりと動き、長い年月を生きるゾウガメ。あるいは、せわしなく動いて、たくさんの子どもを作り、短い一生を終えるネズミ。彼らに悠然と動いている意識やせわしなく生きている感覚があるだろうか。そんなことはないだろう。彼らは人間とは違う、それぞれに異なった時間を、それを当たり前のものとして、ごくふつうに生きている。
そうだ。「すべての生物がそのなかに置かれているような単一の世界など実は存在しない。すべての生物は別々の時間と空間を生きている!」
ここでは僕が今思いついた例を挙げてみたが、暇倫では、人間には到底理解できない、驚きに満ちた環世界、人間が経験しているものとは全く異なる時間と空間が、実験や観察の事例とともに数々紹介されている。どれもとても興味深いのでぜひ読んでほしい。
それぞれの生物が経験している世界が、それぞれ異なっている、というこの理解は、個々の人間についても当てはめることができるだろう。天文学者が見上げる星空は、天文知識のない人が見上げる星空とは違って見えるはずだし、本格的にバンド活動をやっている人がポップソングを聴く時には、音楽の素養がない人が気づかない、各パートの巧拙やコード進行の工夫が、はっきりと耳に入ってくるはずである。
そして人間は、勉強したり練習を積めば、程度の差はあれ、天文学者の環世界や音楽家の環世界を生きられるようになる。そこで暇倫は、人間には高い環世界移動能力があるのだと結論づける。さらに暇倫は退屈をこのように分析する。人間は動物に比べあまりに容易に環世界を移動してしまうので、一つの環世界にひたり続けることができない。それ故に退屈するのだ、と。
しかし環世界を移動するとはどういうことだろうか。オフィスでの気配り、数字や書類に対する注意力は、自宅でくつろいでいるときには働かない。暇倫はこれも環世界の移動なのだと言う。だが、もしそうだとすると、動物も人間と同じくらい容易に環世界を移動していることにならないか。たとえば、ウミイグアナが海辺の岩場に寝転がり日を浴びて体温が上がるのを待っているとき、もはやそこには、海中を泳いでいたときの獲物の動きを的確に捉える注意力は見当たらない。メスをみつけたときの、メスを独占しようと他のオスを追い払う攻撃性もない。ということは、ウミイグアナもつぎつぎ環世界を移動している、と言えるはずだ。それも人間と同程度に軽々と。
人間が場面に合わせて対応を変えることが環世界を移動することの一例であるなら、あらゆる生物において、環境の変化に対応し頻繁に別の環世界へ移動しているようすが人間と同様に観察できるだろう。はたして環境に応じた対応パターンの変化〜暇倫流に言うならば「習慣」の切り替え〜を、異なる環世界に移動した、と捉えるのは妥当なのだろうか。僕には環世界概念を拡大解釈しすぎているように思える。
そもそも人間にも動物にも、環世界移動能力があるように思われない。環世界はせいぜいゆるやかに変化するだけである。環境によって世界の感じ方ががらりと変わる人間と遭遇した時、僕らはふつう、精神を病んでいることを疑う。あらゆる可能性に開かれた自由な人間は、人格の一貫性を保てないだろう。もし本当に高度な環世界移動能力がある人間がいるなら、彼は決して退屈しない。めまぐるしく環世界が切り替わり、その都度人格が変容して、新しく世界を体験することになるからだ。
生トマトが苦手な友人がいる。いっしょにご飯を食べることになった。サラダが運ばれてくる。突然友人の動きが止まる。そうして、やっと気づく。ああ、そのトマトは僕の皿に移すよ! そろそろ付き合いが長くなるというのに、彼がトマトが苦手なことを、僕はたいていすっかり忘れている。さらに言えば、その友人といっしょにいるとき生トマトを避けるべきことを完全に身につけたとしても、僕が彼の環世界へ移動したことにはならない。生トマトに関する新しい習慣を身につけただけのことだ。
彼にはトマトがどう見えているだろう。果肉にうがたれたグロテスクな穴に、ぬめぬめと気持ちの悪い粘液につつまれた、黄緑色の種がたれさがる。ぐちゅっとした食感に続き、口の中に得体の知れない冷えた液体と生温かいぬめりが広がる、あの身の毛もよだつ感覚が呼び覚まされる。そんなかんじかもしれない。けれども、彼の話をいくら聞いても、彼といっしょにいるとき生トマトを避ける習慣が身に付いたとしても、僕にとってのトマトは、それまでと全く変わることがない。つややかな赤い実が、みずみずしくほとばしるさわやかな酸味と甘みを想像させるものだ。動物だけでなく人間にとっても、誰かの環世界を、その一部でも自らの環世界に取り入れることは不可能なのである。
毎晩夜空を見上げれば、北極星を中心に整然と回転する他の星々とは違い、夜空を気ままに移動する星があることに気づく。たしかに天文学を学べば、そんな星々の見え方が変わる。それら惑う星々が、地球とともに、それぞれ異なる軌道と異なるスピードで、太陽を回っているようすを思い浮かべ、地球からの見かけ上、それらが追いつ抜かれつするさまを想像できるようになる。ただし、それが可能なのは、太陽と惑星の関係が、ハンマー投げの選手がぐるぐるとハンマーを回すような、なじみのある身近な世界の延長線上に理解されるからだ。身近な世界の有様を、星々の世界に拡張しているのである。環世界が大きく変化するわけではない。
それ故に、現代の天文学と矛盾する強固な信念を持っている人間では、そう簡単にいかない。天動説支持者が地動説を受け入れるまでの歴史的葛藤を思い出そう。彼らは自らの信念に不都合な観測事実を突きつけられてもなお、複雑な計算を必死で考案し、それら観測事実を天動説に基づいて矛盾なく説明してみせた。彼らの夜空の見え方は新しい知見を得てもなお、頑迷にして変わることがなかった。
さまざまなことを長く記憶し言語をあやつり抽象的概念を駆使して、自らの環世界を補強する形で環世界を拡張する。この能力は、なるほど人間ならではのものである。したがって、人間は動物に比べ環世界拡張能力が高い、と言うことはできるだろう。ここで重要なのは、人間の高い環世界拡張能力は、未知のものを既知のもので説明し、なじみのある環世界を、より安定させ揺るぎないものとするために使われる、ということだ。
音楽理論を学んだ音楽ファンが、それまで好きだった音楽を嫌いになることは少ない。好きだった音楽が、ある定石に則って作られていると知れば、なるほどそれですばらしいと感じていたのだ!と納得するだろうし、逆に音楽理論的に見ると定石を外した展開をしていると知った場合でも、ありきたりではない凝った楽曲として、あらためて惚れ直すこととなるだろう。たとえ平凡な演奏だと知ることになっても、この変わらぬ初々しさがよいとか、あえて基本を外れないところによさがあるだとか、それが魅力として新しく発見される。
同じようにレイシストたちはあらゆる事件あらゆる学説を自らの差別感情を満足させるよう読み解き、事実をねじまげる。残念ながら人類最高峰の知性でさえ、ある意味で似たようなものだ。暇倫でも、名だたる知の巨人たちが「世界を自分の見たいように見たい」という欲望に突き動かされ、他人の学説の都合の良いところをつまみ食いし、ときに無自覚に曲解してしまうさまが容赦なく暴露されている。
人間は相対的に高い環世界拡張能力を持っているが、人間でも動物でも環世界はそう簡単には変わらない。あらゆる生物は自らの環世界を頑に保持しようとする。だとすれば、退屈はどのように生まれるのだろうか。そこで暇倫でも言及された「快原理」について、自分自身の快体験をつぶさに観察しながら、発展的に考えてみたい。
快原理と退屈
快原理とは、不快を避け快を求める傾向性を指す。フロイトは人間はこの快原理に支配されていると考えた。フロイトによれば、不快とは興奮量の増大であり、快とは興奮量の減少であるという。暇倫の快原理に関する議論の中で、もっとも興味深いのは性的快楽の分析だ。フロイトがその著書で快原理をどのように分析しているのかは知らない。ここでは暇倫で取り上げられていた分析からのみ考えていく。
興奮量の増大が不快だというのなら、性的興奮をどう説明するのか。フロイトはこの疑問を予想し、あらかじめ先回りしてこんなふうに答えているのだと言う。「性の快楽は快原理と矛盾しないのである。なぜなら性の快楽は、高まった興奮を最大限度にまで高めることで一気に解消する過程に他ならないからである。」 性的興奮は、安定した状態への復帰のためにあるのだから、快原理に矛盾しないというのだ。さらに「フロイトは性的絶頂の後の身体は死と似た状態だとも述べている」。
この分析は二つの点でとても興味深い。ひとつは、僕らが性的興奮を不快と感じていない事実を認めていることだ。もう一つは、性的絶頂後の安定状態が死と似た状態であると述べていることである。すなわち、快原理がめざす心身の安定状態には、もはや快の体験が存在しない。快の体験は興奮が鎮静されつつある瞬間にのみ、存在する。これは実感ともあっている。そうでなければ、安定した状態にある間、僕らは延々と快感に酔いしれ続けなければならず、安定が安定ではなくなってしまう。
これは性的興奮に限った例外的な話なのだろうか。そうではないだろう。スポーツに熱中している時、あるいは、友人と熱く語り合っている時、僕らは大いに興奮しながら、たしかに快を体験している。なぜか。おそらく、興奮の中に鎮静があるからだ。ボールを思いのままに操れた時、議論がお互い納得いく結論にたどりついた時、状況や話題のめくるめく変化に興奮しながらも、僕らはすっきりとする感覚を味わう。高揚や楽しさといった快の体験は、興奮と鎮静が同時にあることで生み出されるのではないか。
ということは、快体験とは興奮が鎮静されつつある体験であり、不快体験とは沈静なき興奮が持続する体験だと言えそうだ。そして、快体験も不快体験も、興奮があるかないか、のような、1か0のデジタルな体験ではなく、興奮の度合いによって強弱のつく体験なのだ。興奮がより強いほど、興奮からの鎮静がより急激であるほど、より強い快体験となるし、鎮静なき興奮がより強いほど、より強い不快体験となる。より強い不快体験は、もはや不快とは呼ばれず、恐怖と呼ばれるだろうし、より長い不快体験は、不安と呼ばれるだろう。
このように考えると、なぜ人間が部屋でじっとしていればいいのにそうできないのか、なぜ退屈してしまうのかが見えてくる。それは、満ち足り心身が安定した状態が、不快ではないという意味で快適ではあっても、決して快の体験そのものではないからだ。人間は、不快を避け、興奮のない安定した状態を求めるだけでなく、長く快の体験がない状態にも耐えられない。おそらくこれは人間に限らない。ある程度の記憶力を有するあらゆる動物は、不快を覚えない心身が安定した状態に置かれたとしても、しばらくすれば快の体験を欲するようになる。そのとき、期待している快の体験が当面手に入りそうもないと感じれば、時間をもてあまし退屈を感じる。人間や記憶能力の高い動物は、たとえ満ち足りていても退屈する宿命なのだ。
興奮と意識
どうやら興奮は退屈と深く関わっているようだ。興奮とは何か。暇倫の用語を用いて答えるならば、安定した環世界への「不法侵入」を検知した時、それに対処するため身体の活動レベルがあがることだ。不法侵入の規模が大きければ、より警戒レベルは上がり、より興奮が強まる。
これがいったいどういうメカニズムによって可能なのか、推測してみよう。生物は環世界を生きる中で、ある出来事のパターンには特定のある出来事のパターンが続くことを記憶していく。やがて、ある出来事のパターンを経験するやいなや、それに続く出来事のパターンが、頭の中であらかじめ再現されるようになるだろう。そのようにして常にわき起こる頭の中の予想された出来事のパターンと実際に観測された出来事のパターンに大きなズレがあるとき、違和感、すなわち暇倫が言うところの「不法侵入」を感じ取る。
「意識」とは、この、予想された出来事のパターンと観測された出来事のパターンの差分かもしれない。いわば人や動物は常に昼なお夢を見ているのだ。夢とうつつのズレをモニターする機能が「意識」なのではないか。意識は「不法侵入」監視システムなのかもしれない。通常、昼見る夢、自らのうちに常にわき上がる出来事の予想パターン、は現実によって補正される。ところがまれに、昼見る夢が現実によって補正されず、さらには夢が現実として認識されてしまうことがある。壁のシミから連想が暴走し不気味な顔がリアリティをもって眼前に立ち現れ、葉擦れのノイズが自分をののしる人の声として聞こえる。幻視や幻聴をともなう病気が存在するのは、人が常に昼なお夢を見ている証左ではないだろうか。感覚遮断実験が幻覚を誘発し精神異常をもたらす危険な実験であることも、示唆的である。
学生時代に住んでいた町をしばらくぶりに訪れた時、こんなことがあった。僕は通学のためによく自転車で走っていた国道をバスに乗って移動していたのだが、外の風景を眺めながら、ふとぬぐい去りがたい違和感を覚えたのだった。いったい何に違和感を感じているのだろう。違和感の候補をあれこれ考えてみても、違和感の正体がどうしてもわからない。すっきりしない思いを抱えながら、僕はしばらくバスにゆられていた。そして、何分か過ぎた頃、唐突に違和感の正体がわかった。前にはあった建物が、すっかりなくなっていたのだ。いつもただ通り過ぎていただけで、何の建物だったかも覚えていない。だがそこにはたしかに建物があった。
人間の意識は、建物が見当たらない、故に、おかしい、違和感がある、という順番で思考しない。まず得体の知れない違和感があり、その後に違和感の正体を探す。正体を探すといっても、正体の候補は勝手に意識にのぼってくる。実のところ意識がやることといったら、後からだだっ子のように「これじゃない!」と拒否するぐらいだ。やりなおしを繰り返し、たまたま違和感が消えたところで「はい正解!」、スッキリする。
頭の中で考えることでも同じだ。この文章を書いている最中も、頭の中で思い浮かんだ文章に「これじゃない」と感じることがしばしばある。その後、別の表現や別の論理があれこれ思い浮かび、しっくりするものが現れたときにそれを採用する。最初から、これこれの理由でこの文章はおかしい、とはならない。そのような論理は違和感のあとの試行錯誤でやっと手に入る。頭の中で考えることであっても、「意識」にとっては、頭の外の実際に観測される出来事と同様、外側から与えられる出来事なのである。
具体的な例で考えてみよう。ある公園沿いの歩道を歩いている。子どもたちが野球でもしているようだ。ふと視界になにか違和感を感じる。その違和感により興奮が引き起こされる。いったいなんだろう!? 景色のあらゆる部分を見渡し、それらが次々意識に飛び込んでくる。すぐに気づく。ふいにボールが視界に入ってきたのだ。ボールが飛んできているという認識が、次に予想される出来事のパターンに反映され、予想される出来事のパターンと観測された出来事のパターンが一致する。パターンが一致したため、ボール以外のまわりの景色は意識から消え、ボールの動きに予測と観測が集中する。つまりはボールに意識が向けられる。最初の違和感は解消し、興奮は鎮静される。しかし同時に新たな違和感が生まれ、興奮が起きる。ボールがまっすぐ自分に向かっている! 高揚の中、身を屈めボールを避けることに成功する。違和感が解消し興奮が鎮静され、ほっとするという快体験を得る。
人間や動物は、違和感に遭遇し興奮していても、その違和感を解消する方法が明らかで、解消に成功しつつある感覚があれば、その興奮の持続を不快とは感じず、高揚感やときには充実感を感じる。人や動物にとって、もっとも根源的な不快とは、得体の知れない違和感が続くことである。人はこの状態にとても耐えられないので、違和感の正体をなんとしてもみつけようとする。どうしても正体が分からない時は、たいていの場合、便意が標的にされる。これは、暇倫の指摘した、定住革命で人類が直面したトイレトレーニングの困難に起因するのかもしれない。
すこし話がそれた。上記の意識に関する考察は、なんら脳科学に基づくものではないし、いろいろ突っ込まれると僕にはきちんと答える根拠がない。自分自身を観察するなかで、だいたいこういうことなのではないか、と思ったことを書いた。単なる素人の思いつきだ。ただ、意識を夢(予想)とうつつ(観測)の差分だと考えれば、意識の指向性や「注意」についても、なんらかの説明がつくのではないか、とひそかに期待している。
ひとつだけ指摘すれば、意識や思考を上記のように考えることは、リベットの有名な実験結果に矛盾しない。リベットは、人間が何かをしようと意識する前に、脳の活動が350ミリ秒ほど先に始まっていることを明らかにした。この結果を受けてリベット自身がこう言っている。「意識ある自由意志が自発的なプロセスを起動するのではない」としても、「意識的な意志がプロセスを止めたり、拒否したりすることができる」。このことが、自分自身をコントロールしている、という私たちの感覚と合致するのである、と。
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