2013年1月23日(水)國分功一郎「暇と退屈の倫理学」の感想文
人間は退屈しやすいか?
これまでの分析に基づき、興奮は、予想された出来事のパターンと実際に観測された出来事のパターンとの間のズレが大きいほど強くなるのだとしよう。とすれば、予想の精度が高いほど、あるいは、予想の補正能力が高いほど、興奮は小さくなる。同じメンバーのパーティが繰り返され慣例となれば、パーティで起こることの予想の精度が上がるだろう。当然、興奮の度合いは最初のころより見劣りするようになる。もちろん予想の精度や補正能力は、繰り返し経験することによってのみ高まるだけではない。
外出から帰ってくると、部屋に大きな段ボールの空き箱があった。なんだこれは? 人間の大人ならば、こう反応するだろう。表面に電子レンジのイラストが書いてある。そういえば家人が新しい電子レンジをネットで買ったと言っていた。今日届いて空けたのだろう。台所に行くと真新しい電子レンジが置いてあった。やはりそうだった。どれ、どんな機能があるのかさわってみようか。こうして段ボールへの違和感はすぐに失われる。
経験豊富な人間の大人は、状況を注意深く観察し、すぐに言語による込み入った説明を思いついて、違和感を解消してしまう。そこに興奮はほとんどない。動物に比べ環世界拡張能力が高い人間の大人は、予想の精度と予想の補正能力が高く、違和感にさらされてもそれを簡単に解消してしまうのである。これが小さな子どもであれば、大きな段ボールに興奮しないわけにはいかない。箱の中にはいって箱を自分だけの部屋に見立てたり、上からかぶって忍者になってみたり、想像力を駆使して、思いがけない不法侵入者を、なじみの環世界に位置づけようとするだろう。もしこれが猫ならば、とにもかくにも段ボール箱の中に収まってみなければならない。身体全体で見慣れぬ物体とたわむれ、それを慣れ親しんだものへと変えていく。
退屈は、その場面に期待する満足(快体験)を当面得られそうもないという予感だと述べた。犬を飼っているとしよう。その犬にはとても仲のいい犬がいて、夕方決まった時間に散歩に行くと、公園で必ずその仲のいい犬と会うことになる。二匹は顔を合わせるやいつも楽しそうに遊んでいる。ところがある日、いつも通りに公園に散歩に行ったにもかかわらず、その仲のいい犬はいつまで待っても来なかった。飼い犬は、ボールを追いかけてみたりしているが、すぐに飽きて、どこか遠くの臭いをかいでいる。こんなとき、おそらくこの犬は退屈している。
退屈が生まれるには、その場面にふさわしい満足の度合い、すなわち快体験の度合い、が見積もられていなければならない。退屈は、期待する快体験の度合いに、実際の快体験の度合いが、当面引き合わないと感じられるとき生まれる。今体験しているこの場面が、過去に体験したあの場面と同じものだと感じ、両者の快体験の度合いを比較することは、おそらく動物にもできる。だから動物も過去に経験したあの楽しさの記憶によって、退屈することはあるだろう。
一方人間は、記憶力に加え、言語を操る能力がある。そのためまったく異なる体験を、一つの概念でひとくくりにし、同じものとして捉えることができてしまう。気の置けない仲間たちとのパーティも、ドレスコードがあるフォーマルなパーティも、パーティはパーティだ。だから、仲間たちとのあのパーティの楽しさと、フォーマルなこのパーティの窮屈さを比べてしまう。それどころか、何一つ同じところがない体験を「休日の過ごし方」として同じものに感じることさえできる。さらには「すばらしい幸運にめぐまれない」という点で、毎日を同じものと感じ、なんとなく退屈になったりもする。それだけではない。人間の持つ言語は、他人の評判を伝え聞いて、他人の快体験を自分の期待に変えることをも可能にするのだ。
人間は、その高い環世界拡張能力によって、違和感をあっさり解消し興奮する機会を減らすだけでなく、まったく別の体験を同じものとして比較してしまう。暇倫とはずいぶん異なる道筋をたどったが、人間が動物に比べ退屈しやすいことは確かのようだ。また、退屈がもたらす負の側面については、暇倫の議論に共感するところが多い。退屈は、ともすれば、決断へのあこがれを生み、人間を盲従に駆り立てるだろう。
人間らしさはどこか
では退屈と向き合うにはどうすればいいのだろうか。いよいよ、人間らしさの中にそのヒントをさがしにいこう。ここでは、動物と人間を分つものは何か、興奮への対処から考えてみたい。安定した環世界への「不法侵入」が興奮を生む。もしそれが害をなすものであれば、即座に排除するか、急いで逃げ出さなければなければならないだろう。逆に有益なものであれば、うまく手に入れなければならない。だが、それが「不法侵入」の規模の割に、有害でも有益でもなく、どうでもいいものだったらどうだろう。
多くの動物は、警戒の鳴き声をあげたり走り回ったりしたあげく、やがて平静を取り戻す。草食動物や猿の群れでは、警戒の鳴き声等で群れ全体に興奮が伝播し、ひとしきり群れがざわついた後、なんでもないことを知った個体から次第に落ち着きを取り戻す。
同じ猿でもボノボでは少し違うかもしれない。ボノボは群れの中で緊張が高まった時、相手がオスでもメスでも、相手とセックスすることで緊張を緩和するのだという。いわば性的興奮で別の興奮を上書きしてしまうのだ。これは争いを避けるということもあるだろうが、無駄に危険を呼び込まない戦略でもあるだろう。なんでもないことで群れ全体がいちいちざわついては逆に危険を呼び込んでしまう。
この習性ゆえに、ボノボの社会を「愛の力で争いを克服する社会」と、美しく表現する向きもある。本当にそうだろうか。人間で同じことをしているところを想像してみよう。何人かの友達と街を歩いている。高そうなかっこいいフェラーリが車道を走ってきた。なんとなく車を目で追いながら歩いていると、いっしょに歩いている一人が歩道の真ん中に立てられた街灯に気づかず、柱に軽く激突してしまった。びっくりした彼らは高まった緊張をほぐすために、歩道上で男女あるいは男同士女同士抱き合い、、、(略)。
極度に身体接触を忌避する現代日本社会は、これを多少見習った方が社会に蔓延するストレスの軽減にいくらかつながるかもしれない。とはいえ、これは実際にはなかなかたいへんで疲れる社会だ。こんなとき人間はふつうどうするだろうか。人間はこんなとき「笑う」のである。笑いとは、仲間に向けて、この「不法侵入」はなんでもないと伝え、同時に「不法侵入」によって引き起こされた自らの興奮を鎮静するものだ。そこには興奮と鎮静があり、だから笑うとき僕らは快を体験する。いちいちセックスするよりもこちらの方がよほど洗練されている。笑いこそが人間を動物と分つものである。
もしかしたら笑いは、はっと驚きほっと息をつく一連の反応が高速で繰り返されることによって生まれ、進化してきたのかもしれない。試しに鏡の前で恐怖に引きつるくらいに驚く表情を作り、そのままの顔でほっとしてみるといい。鏡の中にまさしく笑顔が作られているはずだ。
田舎の田園を歩いていると、ときおり鳥避けの爆竹が鳴り響き、突然の大音響に心底驚くことがある。もし一人で歩いているなら、一瞬どきっとして「ああ鳥避けの爆竹音か」と思い、そのまま歩き続けるだろう。しかし二人で歩いていて、おしゃべりが盛り上がっているときならどうか。突然、パーン!と大音響が鳴り響く。話の途中で二人ともぴたりと固まる。お互いびっくりして表情が引きつっている。こんなときは、顔を見合わせぷっと吹き出したくなるんじゃないだろうか。笑いには、その「不法侵入」が、それによって引き起こされた興奮の割になんでもないということを仲間に伝える、という機能がある。
子ども、とりわけ男子小学生は、公衆の面前ではタブーとされている言葉(定番の「うんこ」や「ちんちん」!)をみつけるだけで大興奮し、けたけたと笑う。それら「不法侵入」に本当はどぎまぎしながら、それらが誰かにまったく害をなすものではないと強調しなければならないからだ。一方引き起こした興奮とふつりあいに無害であっても、自分たちとかけ離れすぎた「不法侵入」に笑いは要請されない。違和感を感じた後すぐにどうでもいいこととして忘れ去られる。自分たちともしかしたら関係ありそうで、それでいて実害がほとんどない、仲間にこれはなんでもないと伝えずにはいられない、絶妙の「不法侵入」でなければ、笑いは生まれないのである。(個人的には抱腹絶倒の「ふうらい姉妹」をシュールすぎて笑えない人がいるのは、その人が「ふうらい姉妹」の感性とかけはなれているからである。彼女らと同じ発想をしかねない危うさを抱えている人はきっとおもしろい。)
人間には他の動物にはない高い環世界拡張能力がある。この力は言語によるところが大きい。もちろん言語は自分の考えを他者に伝えるためのものだ。人間にしかない「笑い」もまた、他者に「不法侵入」のなんでもなさを伝えるために生まれた。つまり、人間が人間らしくあるのは他者がいるときである。平凡な結論ではあるが、他者の存在こそが人間を人間たらしめるのだ。
暇倫の欲望
暇倫ではどうだっただろう。暇倫は環世界移動能力が相当に高いことが、人間らしさであるとした。故に人間は不安定な環世界を抱えて生きざるを得ない。そこで人間は環世界を安定させるべく、苦労して習慣を創造する。自分なりの安定した環世界、「習慣」の中で、退屈と気晴らしが入り混じった生を生きることこそが、人間らしい生き方である。
暇倫が言うように、環世界移動能力が高すぎるが故に、人間は退屈から逃れられず、その結果危うい決断主義に魅惑されるのだとしたら、退屈には少なくとも二つの対抗策があるだろう。ひとつは、さまざまなことに関心を持ち、環世界が移動しても、その先々でしばし退屈せずにすごせるようにすることだ。もうひとつは、環世界に長く留まれるよう、なじみとなった環世界のものごとを、すなわち「習慣」を、じっくり楽しむ術を身につけることである。
ところが暇倫では関心を広く持つよう推奨することがあっさりと否定される。なぜなら、「目を開け!」「耳を凝らせ!」と強制することは、「世界そのものを受け取ることができる」としたハイデッガーの人間観そのものだからだ。そのような信念を持つものはハイデッガーと同じ議論をたどって、やがては「決断」を求めることとなり、決断の「奴隷」に成り果てるだろう。暇倫は結論を目前にして、あらかじめこう釘を刺すのだった。
一方この感想文ではハイデッガーの退屈の第一形式に「奴隷」と化した人間を見ることはついになかった。退屈の第一形式において、気晴らしが成功し得ることも示した。いや、それはおかしい、退屈の第一形式は時間を失うことを脅迫的に恐れ、「仕事の奴隷」となった人間が陥る退屈のことをいうのであって、この感想文の分析は的外れである、と言うのであれば、退屈の第一形式とは退屈の極めて特殊なケースでしかない、ということになるだろう。ハイデッガーは、退屈を二つに分ける、といいながら、その実極端な例を挙げていたにすぎないことになる。したがって、この感想文の議論からは、まわりを注意深く観察し興味を引くものをさがすよう推奨することが、決断主義を招くとは結論されない。無論、この感想文はハイデッガーの退屈分類自体にさほどの意味を見出さなかったのだから、暇倫の結論を共感を持って扱えないのはしかたのないことである。
楽しむためには「訓練」が必要だと暇倫はいう。食を味わうことにももちろん訓練が必要であり、「そのような日常的な楽しみに、より深い享受の可能性がある」と強調する。なるほど、それはある程度正しい。だが、他者の存在が人間らしさの源泉であると結論したこの感想文としては、こう聞かずにはいられない。「一人で食事して楽しいですか?」と。この疑問は巻末の注を読んだ時ますますふくれあがる。暇倫の巻末の注にはこっそり(?)「セックスですら、訓練が必要」と書かれているのだ。「訓練」という言葉にはどうしても本番前の練習といった響きを感じてしまう。それに加えて、注の書きぶりには他者の存在が希薄なのである。相手の気持ちや状態に配慮する言及がなく、まるで相手が身体をもった自動機械であるかのように「相手の反応」と書かれている。これを読んだ時思い浮かんだのは、教則本と教則ビデオで念入りに勉強し、日々イメージトレーニングを欠かさず、その末にこれぞ最高の楽しみ方と見定めた方法を誠心誠意実践し、独り自分に酔っている残念な男子の姿だった。
日常の何かを楽しむために訓練するというのは、訓練の対象を選択する時点で既に「決断」ではないのか。この感想文では、人間には環世界拡張能力があり、それはなじみの環世界を補強するものだと述べた。だとすると、関心を広く持つことが推奨されず、自分と異なる環世界を持つ他者との対話もなく、独り黙々と訓練する人間は、ますます固定観念にとらわれ、それこそ決断の奴隷と化すだろう。こんな具合だ。
私はものを味わう訓練を積み、またじっくり勉強し、さまざまな食べ物についてそれぞれにもっともふさわしい味わい方を会得した。パーティが開かれた。ところが出された料理は、その食べ物の味をもっとも引き出すとされる調理のされ方をしていなかった。まったくわかっていない! いやそれでもこのように舌の上で転がせば、この食べ物はじわっと滋味が広がるのである。うむうむ、すばらしい。ゆっくりと慎重に噛み締めながら、私は感じる。私は今まさにこの食べ物を味わい受け取っている! まわりの友人はおろかにも食を楽しまず、ホスト役手作りの間違った料理に歓声をあげ、楽しくおしゃべりして盛り上がっている。そのうち彼らの一人がだまりこくっている私にようやく気づいて聞く。どうかしましたか? ふん、味わい方も知らないとは。だが愛すべき連中ではある。どれ、しかたない。本当の味わい方を教えてやるとするか。
私はめでたく夫になった。これからずっと夫であることを楽しめるようにならなければ。夫を楽しむとは、世界の誰よりも妻を愛することである。私を私をそのように訓練しなければならない。したがって付き合いの長い友人であっても、もはや妻と比べれば取るにたらない存在だと考えざるを得ない。友人に示す親愛の情は妻に示す親愛の情の5〜6割前後までとするのが適当であろう。妻が目の前にいるかどうかは関係ない。それによって態度を変えることは不実である。私はいついかなるときも親愛の情の配分を間違わないよう訓練されなければならない。もちろん特段の理由がない限り、わざわざ友人と会う価値などない。ただし妻の楽しみややがて生まれる息子の情操教育上必要なら会うことを許そう。妻と共通の友人については別である。彼らは妻にも喜びをもたらすのだから会う価値ぐらいはある。会社の同僚や上司はどうか。彼らとの仕事は私を向上させるし給金をもたらす。つまり私の家族となった妻ににも利益をもたらす。したがって、むげにコミュニケーションを断るわけにはいかない。ことによっては妻に向ける親愛の情の8割ぐらいの親愛の情を示すべきときもあろうか。
息子が誕生した。無論、私は父であることを楽しめなければならない。よき父とは息子をいついかなるときも信頼し自主性を尊重するものであり、そのような父となることが父を楽しむことである。勉強のために読んだ本にもそう書いてある。ということは父を楽しむには息子に嫌われてはならない。私は息子が乳幼児であってもそのように振る舞えるよう私を訓練しよう。好き嫌いは子どもの自主性の現れでもある。尊重しなければならない。わがままを言うこともあるが、それも尊重しよう。今は子どもだからしかたない。成長とともにいつかはわかるはずである。やがて息子はだいぶ大きくなった。学校の先生が言う。息子さんが自分の思い通りにならないときに別の子にいじわるをするのです。なんてことを言うのだ! 息子はそんなことをしていないという。私の息子を信頼できないというのか! たとえ学校がそうでも、父を楽しむことを訓練した私は最後まで息子を信じる! あんたじゃ話にならない!校長を出せ!
日常的な楽しみを訓練する人々の惨憺たる光景である。暇倫の真意がどうあれ、暇倫の処方箋はこのように誤解されかねない。なぜか。暇倫も訓練の奴隷となった人々も、自分一人だけで完結しているからだ。そこには他者がいない。それどころか「食」もない。そこにあるのは、人生をより豊かに楽しむことができる「より好ましい自分」への関心だけである。食を楽しめる自分に熱中するあまり眼前のそのパーティのその食べ物と向き合わず、よき夫たる自分に熱中して妻と向き合わず、よき父たる自分に熱中し息子と向き合わない。彼らは、決して物そのものを受け取ってなどいない。彼らが受け取っているのは、より好ましく思える自分である。彼らはとどのつまり自分にしか興味がないのだ。もし僕の友人がこのような訓練の奴隷となったなら、それまでの友情によってその生き方を尊重はするが、彼、あるいは彼女が、そうした信念を持つ限りもう二度と友達であることはないだろう。
暇倫の結論はなぜ一人で完結したものでなければならなかったのだろうか。結論の最後でも、退屈とどう向き合うかは「自分」の問題だと決めつけている。実はこれには著者の欲望が反映されている気がしてならない。
現代日本において、哲学者という「サラリーマン男性」になるにはどういう道筋をたどるだろうか。まず苛烈な受験を優秀な成績で勝ち抜かなければならない。つぎに徒弟制のような研究室で、容赦ないダメ出しにさらされ地道に訓練される。同年代がそれなりの収入を得て車を買ったり方々に遊びにいく中、彼らは学生時代同様お金のない生活を延々と続け、ひたむきに勉強する。あちこちでバイトや講師をしたりして糊口を凌ぎ、苦節幾星霜。そうしてようやく定収入のあるそれなりに安定した職を得、やがて力を認められ本を出したりする。しかし明治大正ならいざ知らず、今日世間で哲学者と言えば、象牙の塔にこもって、浮世離れした難しい言葉をこねくり回し、役にも立たないことを考えているご立派な優等生、と思われがちで苦労の割に大して尊敬されていない。というよりも哲学者自身が「どうせお前らそう思ってんだろう?」と思っている。
だからひたすらまじめに自己陶冶につとめようやく現在の地位をつかんだ自己肯定感の強い新進気鋭の哲学者はきっとこんなふうに叫びたくなる。「象牙の塔上等! 役に立たなくて何が悪い? 優等生けっこう! お前らがくだらないのであって、オレの生き方こそが正しく豊かなんだよ!」 暇倫の処方箋はまったくこの欲望そのままに書かれている。暇倫は言う。消費社会という浮き世に対抗し、こつこつと勉強し訓練して自分自身をより高めるべし。そのことが日々にいっそう豊かな楽しみをもたらし、その余裕が考えを深め新たな楽しみを待ち構えることを可能にするだろう、と。そう、これは著者の生き方そのものだ。(ところで自己否定感の強い哲学者は別の欲望を持つだろう〜たとえばパスカルのような。)
向上心に溢れ常に高みを目指す生き方は文句無しに正しい。ただ、このある意味学校的な価値観を、常に克己を心がけ独り愚直に全うする人間は、ややもすると、なんらかの基準で高みに達していないと判断した、自分の向上に貢献しないだろう人間を、自分より低く見下し、自分にとって無駄な人間だとさえ感じてしまう。「人そのものを究極目的とせよ」と口走りながら、その実自分自身は他者を自分の向上のための道具としているのだ。まして今日の哲学者という職業は、その道に入ろうとする時点で相当人数が絞られる。したがってまじめに努力し地道に成果を作っていれば、最低限の報いを得られる可能性は高い。いずれにせよ、哲学者というサラリーマンになれたということは、その人物はこの業界で生き抜くことに成功し、ある程度報われた、ということである。彼らに人生の道筋を絵にするよう求めれば、迷わず階段を書くのではないか。今や彼らは、報われないと感じていた時代をこう振り返るだろう。あのとき、難解な哲学用語を自在に操る先輩たちの議論にはまったくついていけなかったが、今は違う。今の自分には勉強に勉強を重ね自分自身の力で手にした段違いの理解がある。あのころは実に未熟だった。それに気づいてもいなかった。あの程度の境遇なのはしかたないことだった。
彼らはその感覚を業界の外に持ち出すことがある。ときには、悩み事を口にする友人を前に「どれキミの問題を哲学的に分析してやろう」と言って、傍観者然と構えてみせたりもするだろう。学問の対象と距離を取るのは、哲学徒として正しいかもしれない。あるいは後進に対する指導としてはこのような態度はまったき適切かもしれない。だが、友達に対する態度としては完全に間違っている。困ったような顔をしたり、難しいと感想を漏らす友人に、哲学者たる彼は思う。「ふん、やはりレベルが高すぎたか。レベルを低くあわせるのも難しいものだな。」 違う。哲学的に分析したことが友人を困らせたのではない。そこになんの共感も友情もないのが友人として不自然なのだ。もし、親身になって友人の苦労を思い、何かのヒントにならないかと真摯に考えを巡らせ、その結果出てきた哲学的分析なら、どんなに難しくとも思いは必ず伝わる。そういうものだ。
思うに暇倫を読む限り、ハイデッガーという人もこの手の、他人を見下し全部自分だけで完結して、友達をなくすタイプの人である。友人とのパーティで退屈したなどと講義でべらべらしゃべるなんて、友人にするにはどうだろうか。しかも投げやりになっているだのなんだの言いたい放題だ。そんな分析をするくらいなら「次はピクニックに行こうぜ!」とでも提案すればいいのだ。少しは新鮮な気分を味わうだろう。もしその試みが失敗しても、やっぱり慣例通りのパーティはいいものだなと思いなおすかもしれない。とはいえあんなパーティの参加者のことだ。退屈していたことを聞かされても「さすがは先生ですわ。ワタクシの退屈が見事に明らかにされていて感動いたしました!」なんて言うに違いない。くされ上流階級どもめ。
哲学者に偏見を持ちすぎだと思われるかもしれない。著者が哲学者なのでこう書いたが、実のところ現代日本の中年サラリーマン男性はみなこんなものである。今や大人になることは友達を失うことと同義だ。責任ある事業をまかされ、それなりの数の部下を持つようになる三十代半ばをすぎると、現代日本のサラリーマン男性のほとんどが、自分を一廉の人物だと思いたがり、とりわけ自分より弱い者にそれを認めさせたくてたまらなくなる。中年期に訪れる自意識過剰の病、中年病に侵されるのだ。中年病には中二病に見られる純粋ささえない。臭い物に蓋をし汚れることを厭わず長い物に巻かれることにこそ、甘くない世の中を生き抜いてきた者の誇りを見出す、倒錯的で恐るべき病である。彼らは会社の人間関係に深く染まり、人間を上下関係のいずれかのランクに位置づけることがすっかり習い性となっている。その習い性はいつしか友人や知り合い、あらゆる人間関係に及び、自分より低いとみなした相手に、会社の部下が自分に示すのと同様の敬意を求め、聞かれもしないのにとくとくと人生訓をたれたりする。何かしら心配してのことなら別だが、世の中はこういうものだと決めつけ、清濁合わせのんだ末自分が会得した人生の真理とやらを、上から目線で延々と語っては、友達が友達でなくなるのは当然だ。こうして中年病に罹患する現代日本のサラリーマン男性とりわけ正社員の大多数は、中年期にさしかかるといっせいに友達を失うのである。しかも友達を失ったことに気づきもしない重症患者が実に多い。彼らの周囲には、もはや親分と子分と同僚と、せいぜい「昔友達だった人」しかいないというのに、それらをみな友達だと思っているのだ。
この傾向は中年病患者に留まらない。今日のインターネットでは揚げ足取りがコミュニケーションのひとつの定番である。めったと交流のないシステム上のトモダチがたまにコメントしてきたと思えば、単なる揚げ足取りだった、ということは珍しくもない。しかも、ぶっきらぼうな口調でありながら、なにかしら親切をしたと思っている節さえある。かつては友達と呼ばなかったような関係がシステムによってトモダチとされ、今や友達に期待された機能がシステムの用意した「ボタン」に置き換えられつつある。悩みを口にする友人がいれば、聖人のように微笑みながら「いいカウンセラー紹介しようか?」と言うのが親友の作法とされる日もすぐそこまで来ているのではないか。専門家にまかせた方がいいケースがあるのはわかる。しかし話を聞こうともせずいきなりそれはない。
暇倫で指摘された定住革命から長い月日を経て人類の技術的社会的分業は極限にまで達した。人々にシステムの定義するトモダチはたくさんできたがかつての友達はそれらに埋没しとうとう見失われかけている。一方で消費社会に幻惑されないだろう優秀な人々もまた、こぞって訓練の奴隷となり、仮想のヒエラルキーを一段一段のぼって、よりよい自分となることに熱中するばかりだ。人間らしさは、他者の存在抜きに語れないというのに。
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