2014年4月12日(土)エコールとよだれ桜

  • 月一のエコール・ド・東山を聴講しに自転車で京都まで行ってきた。ヨドバシで偶然の出会いがあって夜から植物園でお花見。よだれ桜とは、ある五歳児が発案した夜桜としだれ桜をかけた造語である!

  • (2014年4月16日(水) 午前1時25分5秒 更新)
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京都市立植物園よだれ桜

桜はもうだいぶ散っていた。

京都まで2時間弱

9時半前に家を出て七条に着いたのが、11時半ごろ。いいお天気だったから汗をかくんじゃないかと思い、今回はスポーツ用の半そで半ズボンを着て走った。やっぱりコートを着てブーツを履いていたときよりは動きやすい。思ったより早く着いた。お昼は七条大橋西側のキンカーオで本日のランチ900円。ご飯の前にキンカーオのトイレで、街着に着替えた。うん、この方法ならちっとも汗をかかない。暑くなっても自転車で京都まで行けるかもしれない。

第16回 エコール・ド・東山

というわけで、京大若手研究者による一般向け研究発表交流会「エコール・ド・東山」を聴講してきた。このイベントは、ハイアット・リージェンシー京都の地下にある、それはもうおしゃれなバーで毎月第2土曜に開催されている。一流ホテルの一流パティシエが、この会のために作る、とってもおいしいケーキ付き。これが毎回季節感溢れる趣向がこらされているうえに、そのへんのケーキ屋をことごとく吹き飛ばすおいしさ。買えるものならおみやげに買って帰りたい、と毎回思う。

重度意識障害の状態にあるAくんの生活

本日一本目は亀田直子さんが、看護の現象学的研究を紹介してくれた。看護の実践の中で培われる研究ということで、この会で今まで聴いた中で一番重いお話だった。ただ研究が前提としている基礎知識がないため、発表についていけないところがあった。まず現象学が難解すぎて、よくわからない。そしてそれが看護とどう繋がるのかもわからない。

そのあたりについて、ネット上に参考になる記事があった。特にひとつめの記事はとてもわかりやすく、しかもコンパクトに要点がまとまっており、理解の助けとなった。おすすめです。

  1. 看護にいかす現象学の知 【講演】「看護実践と現象学」 (『看護研究』vol.41 No.6 (2008年10月)に掲載されたもの) 早稲田大学国際教養学部 竹田青嗣
  2. 教育講演スライド「看護研究の方法論としての解釈学的現象学」東京女子医科大学 田中美恵子

亀田さんは方法論として現象学的研究を採用しているのであって、研究の中心的な関心が現象学そのものにあるわけではない。重度意識障害を持つ患者さんとの、より豊かな関わり方について、自分が得た実践のヒントをなんとかして言語化し、それを患者と関わるより多くの人と共有したいのだ。亀田さんは実践に貢献することを切実に希求している。その真摯な情熱は発表の間、一貫して伝わってきた。

実は亀田さんとは昨年12月のエコール・ド・東山で一度お会いしている。このとき亀田さんは聴講者として参加していて、茶話会で発表者の中嶋さんと西田哲学について真剣な議論をかわしていた。今日の茶話会で聞いた話によると、亀田さんはその後、中嶋さんの紹介で読書会に参加するなどして、西田哲学を勉強されているそうだ。エコール・ド・東山、目論見通り他分野研究者との交流を促しています。

正直なところ、現象学的研究がどういったものなのか、まだよくわかっていない。医療や看護は、一般化とマニュアル化をめざしてきたと言える。客観的、実証的に、正しい診断、正しい治療法をみつけ、あまねくすべての患者が同じ基準で診断され、同じ治療を受ける。それが理想とされているイメージがある。

けれどもその方法では取りこぼされてしまう患者もいる。そうした医療のあり方に対する反省として、現象学的研究が注目されているようだ。患者と医師、看護師、家族、患者に関わる人々すべてが、これがよりよいのだと、妥当であるのだと、その都度確信できるような医療、看護、患者との関わり合いは、いかにして可能なのか。治療の客観的正しさよりも、個々の患者の、生の豊かさを求める研究が、現象学の方法論をも取り込み、さらには実践が模索されているということに、新鮮な驚きを覚えた。

亀田さんは、重度意識障害の子どもの、ほんのわずかな反応に気づくことが、しばしばあるのだという。亀田さんや反応を見つけるのがうまい看護者が、子どもの反応を見逃さず、それに繰り返し応えることで、反応が大きくなっていき、反応を感じ取れなかった人にも反応があると理解される、そんな好循環が生まれることもあるそうだ。かすかな反応をてがかりに、亀田さんが子どもと遊ぶ様子を伝え聞いて、関わりを諦めかけていた母親が子どもと遊ぶようになったこともあるという。

亀田さんは、患者と向き合ううち、今自分が感じていることが、自分のものなのか、患者のものなのか、わからなくなることがあるらしい。亀田さんは、自分の体験をそのまま伝えきれないことが、とてももどかしそうだった。本人にしかわからない感覚はあるのだろうと思う。

先入見を排除して、患者に関わるさまざまな人々の、そうした言語化しがたい体験が言葉となり、それらが蓄積されていけば、そこから見えて来るものがきっとあるだろう。それは、ほかの患者や患者をケアする人、家族の救いにもなるはずだ。

発表とは関係ない話だけど、最近では、ブレインマシンインターフェイスを通じて、重度運動障害者の意思を伝える機器も開発されつつあるようだ。ブレインマシンインターフェイス技術の進化は、ふつうのひとには見えにくかった反応を見えやすくする、かもしれない。技術の進歩と、亀田さんが取り組む現象学的研究による関わり方の工夫、その両方が、重い障害とともに生きる人々の助けとなることを願ってやまない。

イギリス文学とオランダ絵画

本日二本目は木島菜菜子さんが、19世紀イギリスのリアリズム文学と17世紀オランダ絵画との関係、時代背景の類似点を解説してくれた。クリスマスキャロルで知られるディケンズなどリアリズム文学が花開いた19世紀イギリスは、17世紀オランダとよく似た状況にあった。

17世紀、オランダでは宗教改革が進み宗教画が廃れると同時に、東インド会社の興隆によって莫大な富がオランダに流れ込んだ。自由で裕福な商人が生まれ、彼らは架空の荘厳な世界よりも、身近な風景や自分たちの日常を描くことを求めた。それと同じことが19世紀イギリスで起こった。

ヴィクトリア朝期のイギリスは産業革命を経て「パックスブリタニカ」と呼ばれる大英帝国の絶頂にあった。出版技術が進歩し、それまでよりも本が安く流通するようにもなっていた。豊かになった人々は自分たちの物語を求めるようになった。

「住み慣れたところにも十分ロマンスはある」と言い、つまらないはずの日常を見たことのないものとして描いたディケンズ。彼は自身の作品をオランダ絵画になぞらえたという。彼とは対照的に、よりリアルな描写にこだわったジョージ・エリオットも、オランダ絵画への敬意を作品の中で登場人物に代弁させているそうだ。19世紀イギリス・リアリズム文学の担い手たちは、明確にオランダ絵画を意識していた。

社会の暗い面も隠さずに描いたディケンズ。「単調で地味な生活に対する共感」をすばらしいものとして提示したジョージエリオット。彼(女)らの文学をリアルだと感じた当時のイギリス人のなんと真っ当なことよ。(あ、このへんから個人の感想です。)

翻って、見よ! われらの心根のリアルを! 書店に平積みにされた本のタイトルの、あるいは、電車の中吊り広告に踊る見出しの、あさましくもさもしい言葉の数々を。まあ、比較対象としておかしいし、イギリスにだって人間のクズはたくさんいたでしょうけど。

発表を聞きながら、僕がなんとなく考えていたのは、この社会がとっくに(もしくははじめから)階級社会化している可能性だった。いや、正直に言うと、木島さんがなんだか洋服が上品だし見た目もきれいな人で、漂わせる雰囲気がものすごくお嬢様っぽかったからなんだけど。でも実際は知らない(笑)。

今や国公立の授業料も50万を越えた入学料とあわせれば80万だ。まだ上げる気らしい。こうなるともう、たとえば京大に進学できた人間の多くは、自分とほとんど同じ特定階級の人間としか会ったことがない、ということになりつつあるんじゃないか。

たぶん僕は、ハイアットリージェンシーの地下の、このおしゃれで高級感溢れる空間と、集まる人々の知的に洗練された雰囲気に、少しだまされている。それで、ときどき何か場違いなところに入り込んでいる感覚を持ってしまう。

少し前にいわゆる「意識の高い」若者と話をしたときに、どうも彼らの「意識の高さ」っていうのは、弱肉強食が当然で常に自己責任を問われる社会を前提に、いかに「自分」のみを有利な立場へステップアップさせるか、それをいつも意識しているってことで、競争から脱落したものは努力と情報への感度が足りなかったのであり軽蔑されても仕方がない、みたいに考えているふうだったから、なんとも心配になった。

この手の意識が高い(しかし何か大事な感性が欠落した)ものすごくかしこい人って、この社会の中心にどんどん増えてるんじゃないか。ゲームのゲーム盤がそうと知らず壊されていきかねない怖さがある。

クリスマスキャロルを説教臭いつまらない話と感じてしまうワレワレは、いったいどこに向かっているのか。僕らのリアリズムは19世紀のそれと比べ、はたしてまともだと言えるんだろうか。などと、発表と関係ないことをとりとめもなくふわふわと考えつつ、高級ホテルの高級バーで超おいしいケーキを楽しむ午後でありました。

来月のエコール・ド・東山は?

さて来月の発表は文学三昧らしい。最初の発表では、四方朱子さんが、田山花袋の「蒲団」を取り上げるとのこと。青空文庫で読める(田山花袋 蒲団縦書き版)から予習していくのも良さそうだ。

そして二本目は、最近再評価されつつある稲垣足穂が紹介される予定。発表してくれる旦部辰徳さんは、映画化された作品「弥勒」に出演もしているらしい。映画の話も聴けるかも。「弥勒」は一千一秒物語 (新潮文庫)で読めるようだ。短編なので、気軽に読めそう。

ネットで検索すると、足穂はかなりの奇人で毒舌家だったとわかった。文学には疎いのでどちらも知らない作家だけれど、逆におもしろそうだ。

でも次回は、某イベント合わせの締め切りと重なりそうだから、たぶんお休みだな。。。とはいえせっかくなので、これをきっかけに作品を読んでみようかと思った。

植物園で夜桜お花見

ランチの後、エコール・ド・東山に行く前に少し時間が空いたから、ヨドバシでアクションカメラを見てたんだけど、カメラ売り場で偶然フランス人の友人にばったり会った。もともと彼の奥さん(日本人)と友人だったので、今はいっしょに山の中走ったり、彼にもときどき遊んでもらっている。なんか同僚が仕事でフランスから来たらしくて、カメラを探していたみたい。

さて、そうなると共通語が英語になるわけだ。彼の日本語がどんどんうまくなっているから、簡単な日本語で話すのに慣れすぎていて、もはや英語が出ない! 聞き取れない。あやふやな笑顔でやりとりして、その場は別れた。ははは。

それですぐ奥さんに、すごい偶然!ってメールしたら、今夜植物園で夜桜見るけど来る?って話になり、その訪日した同僚の人もいっしょにお花見をすることになった。あとで聞いたのだけれど、訪日した同僚の人はハイアットリージェンシーに泊まっているらしい。なんという偶然。ヨドバシで別れたけど、結局同じ場所にいたのか。

錦市場で新酒を買って、大丸の地下でお惣菜を仕入れて、植物園へ。いやー、よかった。飲み食いするお花見は、ひさしぶりだ。こないだ某社長とココナッツサブレとフルーツグミでお花見はしたけども(笑)。

そして、またも共通語が英語。でも一人息子ちゃんは英語しゃべれないし、僕もあんまりだし、英語とフランス語をメインに、日本語が交じる、不思議なお花見だった。訪日した同僚の人もおもしろがっていた。くっそー、英語だけでももうちょっとましになりたいなあ。。。おそらく動機に切実さが足りない。。。

で、9時にお別れして、京都盆地の北の端から南の端まで、自転車で走って帰りました。寒かった。日付が変わる前には帰れた。

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