2014年6月2日(月)プロレスと議論は異なることについて

  • 小生思うところを書いてみた。

  • (2014年6月2日(月) 午後8時3分3秒 更新)
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歌川国芳「流行蛸のあそび」

歌川国芳「流行蛸のあそび」(一部/合成)

プロレスしかできない御仁を如何にあしらうべきか

さて親愛なる諸賢なれば既にお気づきのことであろう。この世には議論ではなくプロレスしかできない御仁がいるものである。小生倩倩思うにこの手の御仁には始めから罵倒芸をもってお応え申し上げるのがいっそ親切なのである。なんとなればプロレスはほぼ一本道をたどり畢竟罵倒芸に行き着くからである。

たとえばプロレスしかできない御仁とそうではない人物が議論したとする。もし彼の人が互いの理解を深める為に議論をするものであれば、自説に誤りあらば改むるに憚ることはない。しかしプロレスしかできない御仁ならそうはいかぬ。誤りを断固認めず、論点をずらし、藁人形論法を繰り出すはずである。

生真面目な諸賢は心していただきたい。プロレスしかできない御仁は、諸賢が言っていないことを言ったと決めつけ、諸賢本来の主張と主張してもいない極論を同一視した上で激しく批判して来るはずである。それが戦略なのか、単に思い込みが激しい性格なのかわからないがとにかくそうなる。必ずだ。

このとき、相手の敵対的な態度に反発して、自説を擁護する勢いで自分が支持してもいない筋の悪い主張をも擁護してしまうことがある。ゆめゆめ気をつけられよ。かくいう小生も頭に血が上っているとこうした致命的ミスを犯してしまう。即座にきっぱりと自分の主張とそうでない主張を切り離さねばならぬ。

これは相手が主張していない極論を叩く藁人形論法の一形態である。藁人形論法は実に強力である。なぜならこれをやられた側は、自分が藁人形とは異なることをまずは説得せざるを得ず、この時点で既に論点がずれてしまうからである。プロレスにおいてはいかに素早く藁人形論法を封じるかが肝要である。

次にプロレスしかできない御仁は、あからさまに正しくない極論を述べる人物が、諸賢の主張と似た主張「も」していることを指摘し、諸賢も同類であると決めつけるはずである。これも藁人形論法の一形態である。この場合も即座に、極論に対する批判の正しさを認め、極端な人物と自分の主張とを切り離さねばならない。

あるいは実際に起こる可能性がほとんどない事態を当然起こるものとして想定するようまくしたててくるはずである。こうなってもいいのか? というわけである。これも効果的に働く。起きようがないということを論証するには時として大変な労力が必要だからである。そしてやはり論点がずらされてしまう。

ことほどさようにプロレスしかできない御仁は論点をずらしにかかる。ここでプロレスしかできない御仁が繰り出すお決まりの手法について紹介しよう。プロレスしかできない御仁は、有効な反論ができないとき、とりあえず上から目線で侮蔑的な言葉を投げかけてくる。しかしこれに反駁してはならない。

もしこちらの問いかけに答えないまま上記のような態度に出られたときは、侮蔑を一切無視し、問いかけに対する答えを執拗に確認するべきである。それでなければ、侮蔑には同様の侮蔑を返すのがよい。念を押すが、そのようなことを言われる筋合いがないと主張するのさえ悪手である。

なぜなら侮蔑に対し縷々理由を述べて反駁したり不本意である旨伝えようものなら、過去の言動を掘り返され、その侮蔑が妥当か否か延々議論させられるはめとなるからである。元々の論点は彼方へ去り、そこへ引き返すのは困難となるだろう。侮蔑には端的に侮蔑をもって応えるのがプロレスの定石である。

いよいよここに至れば、お互い侮蔑と罵倒以外に言うべき言葉がなくなるであろう。すなわち小生が罵倒均衡と呼ぶ状態が生まれ、議論は終息する。互いがプロレスしかできない御仁である場合、一方が誤りを認める可能性はなく、論点ずらしと藁人形論法を経て必ず罵倒均衡に至る。残念ながら必ずそうなる。

後に残るのは、議論の始めからわかりきった「あなたとわたしの主張は異なる」という事実のみである。プロレスにおいては、互いに論点をずらしあいあちこちを不毛にさまよって、あきれるほど膨大な時間を費やしたあげく、とどのつまりそこから得られるものは、始めからわかりきった事実でしかない。

であるならば、始めから全力の罵倒芸を繰り出して差し上げるべきなのである。うまくすれば数回のやり取りで罵倒均衡へ持ち込めるだろう。お互いに時間を無駄にすることがなく、たいへんによろしい。プロレスしかできない御仁には全力の罵倒芸で応える。この心からの親切がご理解いただけたろうか。

とは申せ、小生プロレスは大嫌いなのである。まず不毛である。しかしプロレスしかできない御仁はプロレスにもなんらかの得るものがあると考えているのである。それは何か。それこそがプロレスがプロレスたる所以である。すなわちプロレスとは観客に対し自己の優位性をアピールするゲームなのである。

議論相手を、自分と自分の応援団が共通して敵と認める残念な連中の一員と決めつけ、正義の鉄槌を下してみせるパフォーマンスが重要なのである。始めから議論相手本人の主張にはさらさら関心がないのである。故に藁人形論法を駆使し、相手がまさに想定された敵らしく見えるよう印象操作せねばならぬ。

プロレスにおいては、罵倒芸でも何でも利用できるものは利用し、相手をねじ伏せたように見せることができれば、もちろんそれが一番である。ところが罵倒均衡で終わったとしても、それはそれで一向にかまわないのである。自分の応援団に、自分は残念な連中とは異なる一廉の人物である、ということを改めて誇示できるからである。

おわかりいただけただろうか。罵倒の限りをつくし早期に罵倒均衡がもたらされることはプロレスしかできない御仁にとっては手っ取り早く結果を得られるご褒美に他ならぬ。これは親切なのである。他意はない。だが一つだけ問題がある。諸賢にとっては何の得もないのである。

さらに言えば、プロレスしかできない御仁にはたいてい有象無象の取り巻きがいるものである。プロレスが長引けば、取り巻きの有象無象が既に終わった論点を際限なく蒸し返すはずである。すぐさま罵倒均衡へ持ち込める確信があるか、相手に対し一定の信頼がなければ、罵倒芸で遇すことさえ危険である。

したがって、基本的に「プロレスしかできない御仁」は無視するに限るのである。プロレスしかできない御仁と議論を通じ理解を深めることができるなどと夢見てはならない。

それが議論なれば、互いに互いの人格に対し、最後まで一定の敬意を失わぬものである。たとえ同じ結論に達せずとも、一つ一つ同意できる点を確認しながら、それぞれが暗黙のうちに前提としている条件、あるいは、重きを置く価値観を詳らかにすることはできよう。その中で一方の誤りが明らかとなることもあろうが、ここぞとばかりにそれを罵倒することは、真っ当な議論においてはあり得ぬ振る舞いである。

プロレスはプロレスであって、議論とは別物である。本質が見せ物なのである。得るところなく疲れるだけである。

(その意味で、小生、レイシズムや歴史修正主義を信奉する人々に対し、その誤りを指摘して根気よく説得する諸兄を心よりご尊敬申し上げている。よほどの知識と強い精神がなければ、あのような冷静かつ本質をついた議論はできぬ。見せ物であることを強く自覚し、それを逆手に取って、相手の出鱈目さを観客たちに見せつけている。卓越した技術と言う他ない。陰ながら、いつも応援し、またそのたゆまぬ努力に感謝しているところである。)

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