2013年5月2日(木)夕方探検部〜古道を探索して護摩石へ!
夕方探検部、それは気まぐれに近所の山の中をさまよい歩き古きを訪ねる部活である。ちなみに部員は一人しかいない!
- (2013年5月5日(日) 午後4時34分55秒 更新)
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尾根の突端にひっそりとある護摩石
大門阿弥陀磨崖仏から浄瑠璃寺へ向かう
まずは大門阿弥陀磨崖仏を経て浄瑠璃寺に向かった。道中あちこちで石仏と出会う。藤原時代から鎌倉時代のものが多い。

間近に見る大門阿弥陀磨崖仏。印相がわからなくなっているため、阿弥陀仏かどうかはっきりとしない。

谷を挟んで車道から見た大門阿弥陀磨崖仏。谷間にうぐいすの声が響いていた。

大門にある石仏群。このあたりに散在していた石仏を一カ所に集めたものだそう。

大門石仏群の向かいにある春日神社。結界のようにしめ縄が張ってある。近寄ることを拒んでいるかのようだ。
浄瑠璃寺
新緑の季節。浄瑠璃寺境内の緑が明るく輝いていてとても気持ちがよかった。

本堂から池を挟んで三重塔。三重塔には薬師様がいらっしゃる。

三重塔から池越しに本堂を見下ろす。本堂には、品行方正な人から悪人にいたるまで、人々の生き様に対応した仏様が九体いらっしゃって、どんな人をも極楽へ導いてくれるとされる。ゆえに別名を九体寺という。

趣のある山門。
浄瑠璃寺南大門跡
浄瑠璃寺へ向かう参道を車道へ向かって戻ると、茶店と土産物の間に小さな十字路があって右に曲がると細い道が山の奥へ続いている。浄瑠璃寺に向かって進むなら、土産物屋を過ぎてすぐを左に曲がることになる。
この道の先には、鎌倉時代、赤門と呼ばれた浄瑠璃寺の南大門があった。14世紀半ばその南大門から火災が起こり浄瑠璃寺の多くの建物が焼け落ちたという。

かつて南大門があったあたりにある分岐。この分岐で左に折れ東に進むと、一鍬地蔵のある谷間に出て、笑い仏を経て、弥勒の辻に至る。

分岐から少し進むと左手に水呑地蔵へ降りる道がある。水呑地蔵に立ち寄った後、写真の右側、奈良方面へ降りたが、この先は廃道となっており倒木などが放置されている。

水呑地蔵は、南大門のそばにあった、焼け落ちた地蔵堂に祀られていたものと考えられている。

水呑地蔵のそばには水がわき出している。今は草に覆われているが、だれかが水を酌みやすいようパイプか何かを取り付けたようだ。手にすくって飲んでみるとおいしい。この水の上流には汚染源が無いので飲んでもだいじょうぶだと思う。
実範上人御廟塔
もし県境あたりに古い街道の痕跡があればそこをたどる予定だったのだけれど、それらしきものがみつからなかったので車道を行き、実範上人御廟塔に立ち寄った。
実範上人は明治期に廃仏毀釈で廃寺となった中川寺の開祖で、唐招提寺の復興にも尽力されたお坊さんだという。中川寺のあった位置はもはやわからなくなっている。御廟塔付近にあったのだろうか。

実範上人御廟塔。

実範上人御廟塔へはここから田んぼのある谷へ降りる。
中ノ川辻堂地蔵石仏〜三社神社
中ノ川辻堂地蔵石仏のところで右に曲がり、三社神社に立ち寄った。

中ノ川バス停のすぐそばにある中ノ川辻堂地蔵石仏。何があったのか、頭の真ん中で割れているお姿が痛々しいが、お堂がいつもきれいに整えられていて、地元の人々に慕われていることがうかがえる。

三社神社は、神明宮、八幡神、春日神をお祀りする神社だという。お社は玉垣の上に建てられていて、屋根付きの急な階段が取り付けられている。それも途中で折れ曲がるかっこうとなっており、あまり見かけない変わった形のお社だ。

屋根付きの階段にはスリッパが用意されていた。せっかくなのでおじゃまさせていただくことに。

玉垣の上の小さなお社。階段は北へ向かっているが、お社はほぼ東を背にしている。伊勢信仰に由来する神明宮を祀るということで、伊勢神宮の位置を意識したものだろうか。神社のお社が全体として南に面しているのは、仏教の影響を受け神社に社が建てられるようになった頃の特徴で、ご神体のある方向を無視して南北を意識するお社は春日大社などに見られる。元は南面していたものが、伊勢信仰が高まった頃に折り曲げられたのかもしれない。
古道をさがせ!
ここからはいよいよ探検部らしく道無き道を突き進む。三社神社を後にして山道に入り、集落の共同墓地を抜けてしばらくすると、奈良市の緑ヶ丘浄水場あたりから県境沿いに続いている山道とぶつかる。
というよりも、緑ヶ丘浄水場から浄瑠璃寺の南あたりまでの県境は、古い街道によって分たれているのではないか。浄瑠璃寺の南から先はほぼ尾根筋が県境となっているが、この区間は県境が尾根筋など地形に依っていない。県境の直上に今も山道が残ることがとても興味深い。これは歩いてみなければならない! ということで、ルートを少し戻ることになるが、ここから養豚場を抜けたあたりまで県境に沿って続いているはずの古道を探してみることにした。

県境沿いの道にぶつかって右に折れ少し行ったところで谷底へ降りる荒れた道がある。道なりに進んでいると(そちらの方が歩きやすい道だったので)木津川市加茂町西小へ向かう左側の道へ進みそうになったが、少し引き返して地図を確認し右側の県境の道をさらに東へ進んだ。少し行くと谷を横切って道が畝のように盛り上がり、その上が笹薮で覆われた場所に出た。地図上では長尾谷と書かれている谷だ。

道の痕と思しき盛り土の上を行くのが困難だったので脇にそれてみると、谷底の小川に宝塔の笠石らしきものが転がっていた。あとでこの場所を地図で確認して気がついたのだけれど、ここは実範上人御廟塔のある谷のすぐ下流だ。付近には平らに開けた場所があり、中川寺の寺域がこのあたりまで広がっていた可能性もある。もしこの道が古い街道なら、ひょっとするとこちら側にも中川寺の門があったのではないか。しかもこの谷は浄瑠璃寺奥の院の不動明王像がある滝の上流でもあるようだ。より正確なGPSデータで確認したところ、浄瑠璃寺奥の院の不動明王像がある滝はもうひとつ東の谷でした。かつては聖なる流れとして大切にされていたのかもしれない。流れのそばに宝塔が立てられていたらしいことにもうなづける。奥には流れをまたぐ石橋が見える。

笹薮の下には石橋があった。石積みの上にしっかりとした石で橋が架けられている。いつごろ架けられたのだろう。

付近には人工的に切り出されたもののように見える石が転がっている。
しばらく歩くと、進むのが困難になってきた。かつての道はふかふかのおがくずで覆われ、人ならぬ水の通り道となり、いたるところでぬかるんでいた。それでもところどころしっかりとした道が姿を現す。たしかにここには道があった。

道一面に石が敷き詰められている。敷石だろうか。

進むにつれ倒木が多くなり、薮が道にせり出すようになってきた。人が歩いた形跡がほとんどない。倒木をくぐり抜け薮をかき分けて進む。

県境沿いの道は、養豚場から少し行ったところに抜けた。写真の右手、道路の退避スペースのようになっているあたりから出てきた。道路に出る手前はほとんど薮に覆われ道がわからなくなっている。逆側から入るのは難しいだろう。最初にここを通った時まったくわからなかったし、実際抜け出た後振り返ってもどこが道だかわからない。しかしここに出る直前まではちゃんと道の痕跡がある。退避スペースのようになっているのは、かつての道の名残だろうか。
石龕仏と牛塚十三重石塔
養豚場から33号線を進み、今度は中ノ川辻堂地蔵石仏を通り過ぎて、369号線とぶつかる手前で右手の山中へ延びる道へ入った。この先の見晴らしの好い尾根には首の無い石龕仏と牛塚があり、さらにまっすぐ進むと奈良市の緑ヶ丘浄水場に出る。牛塚からは、真北に加茂盆地を一望できる。

石龕仏と牛塚十三重石塔。牛塚は鎌倉期に奈良の寺社復興のため資材を運んだ牛を供養しようと建てられたものだと言う。牛塚のそばには伊勢参りの記念碑がある。緑ヶ丘浄水場の中にも「太神宮左いがいせゑ」と書かれた道標があり、牛塚の前の道が伊勢へと続く信仰の道だったことを伝えている。

首の無い石龕仏。牛塚の上部の笠石がいくつか失われているが、ひとつは大正期に売られ後に戻ってきたという話を聞いた。この首の無い仏様も、廃仏毀釈吹き荒れる明治期に首だけどこかへ売られたのかもしれない。あまりに無惨だからか、だれかが石を首の上に置いている。
護摩石への入り口
牛塚の脇に北へ向かう道がある。この道が、緑ヶ丘浄水場から牛塚までと同様、京都と奈良の県境にほぼ重なっている道だ。道が県(国)境と重なるところから見てかつてはこちらが本道であり、牛塚から369号線と33号線の分岐付近へ延びる道より重要な道だったのではないか。
牛塚から北へ少し行くと、左手に四五本赤い杭が打たれた場所がある。ここから尾根筋をしばらく行った尾根の突端に、今回の目的地、護摩石がある。

護摩石がある尾根に入る目印。赤い杭が不自然なほど打たれている。去年来たときにはここにも手作りの道標があったが、撤去されていた。

尾根筋に入るとところどころに手作りの道標がある。これらは般若寺の和尚さんが設置されたようだ。
これが護摩石だ!
護摩石は何のために作られたのかはっきりとは伝えられていない。名前から護摩や狼煙を焚いたようにも思えるが、焦げ痕がなく、そのような痕跡は見当たらない。四隅にあるくの字型のほぞ穴の役割も謎だ。般若寺の和尚さんのブログによると、相輪棠のような宝塔の基壇ではないかという。
護摩石の尾根の先端は急に落ち込んでおり、斜面には大きな岩が剥き出しとなっている。南都が近く、春日大社の神域からも外れたこのあたりは、奈良時代から近世に至るまで、南都の木材需要を賄うため木々が常に伐採され、京都の周囲同様ほぼ禿げ山に近い状態にあったのかもしれない。もし木々がなければ尾根を形作る堂々たる大岩が牛塚あたりからもよく見えたはずだ。昔の人々がそこに神の居ます磐座を見たとしてもまったく不思議じゃない。護摩石がある尾根は牛塚のすぐ真北だ。木がまばらであったなら、牛塚や今回探索した古道から、磐座だけでなく、その上に燦然と輝く宝塔の輝きさえよく見えたことだろう。

傍らには去年は無かった卒塔婆のようなものが。「魑魅魍魎精霊」と書いてある。夕暮れ迫る薄暗い山中で、たった独りで目にすると、ちょっと怖い…。どういう意味合いがあるんだろう??

宝塔を据える四角いほぞ穴と四隅に柱かなにかを据え付けるくの字型のほぞ穴がある。

高く盛り上がった尾根の突端にあるため、すぐ近くに三角点がある。三角点マニアの方が打ち付けた記念板。

尾根の先へ少し降り、振り返って尾根を見上げたところ。大きな岩が積み重なっている。
今も使われている古い道
護摩石から県境上の道に戻った後はそのまま先へ進み、三社神社から山中に入ったところに再び出た。県境上の道が三社神社から入る道まではしっかりつながっていることが確認できた。その先は一度入りかけた木津川市加茂町西小へ下る道を進む。こちらの道の方が路面が固く踏みしめられ牛塚からの道より荒れていない。三社神社からの山道もしっかりしていたので、おそらく西小と三社神社のある集落を結ぶ道には、今も人の行き来が割とあるのだろう。
西小に下りしばらく行くと出発地点に戻る。

護摩石の尾根から少し進んだ谷にも石積みの上に架けられた石橋があった。

笹薮を抜ける小径。笹薮に覆われることなく道がしっかり残っている。この道をまだ人が使い続けている証拠だ。

浄瑠璃寺の南へ向かう県境上の道から左へ逸れ、西小へ下る道。尾根の上をゆるやかに下る最後までしっかりした気持ちのいい道だった。

西小へ下りきったところ。左側から出てきた。
今回探索した古道は、かつて貞慶上人や実範上人が歩いた道にちがいない。般若寺から、今の緑ヶ丘浄水場あたりに取っ付き、牛塚を乗り越して、護摩石がある尾根を左手に見つつ、浄瑠璃寺の南側へ抜け、浄瑠璃寺。さらに浄瑠璃寺南大門から東へ、唐臼の壷、笑い仏を経て、弥勒の辻、そして笠置山のふもとに下る。弥勒の辻にある線彫り磨崖仏は、笠置山の弥勒如来磨崖仏を写したものだと言われているから、旅人はここで笠置山の弥勒如来に期待を膨らませたことだろう。
初めて弥勒の辻の磨崖仏が笠置山の弥勒如来を写したものだと知ったときは、なぜ岩船寺の裏にそれが作られたのかわからなかったけれど、弥勒の辻が奈良から笠置山へ向かう街道沿いにあるのだと思えば合点が行く。
もし廃道となっている区間が道として復活すれば、般若寺から出発して弥勒の辻まで、おそらく10キロ程度だと思う。緑ヶ丘浄水場からは全く車道を歩かないし、ハイキングコースとして最高だ。弥勒の辻からは岩船寺の裏山を乗り越して岩船寺前のバス停まで出られる。当尾の裏側が奈良の興福寺などとつながっていて、京都と奈良の県境一帯がさまざまな信仰の刻まれた歴史ある土地だと知る人が増えればと思う。
浄瑠璃寺の和尚さんも地域の環境保全に熱心なので、県境を越え往時のように京都側のお寺と奈良側のお寺と連携することもあり得るんじゃないだろうか。県境によってブツ切れにされた地域の歴史が再び滑らかに繋がることを願う。
とかえらそうに書きながら、このへんのことまだよくわかってないのでテキトーですけどね☆
- 参考文献
Map.
コースと写真の位置の詳細は EveryTrail 版で見られます。<追記>今昔マップで明治期の地図を見ると、県境にはっきりと道が書かれていた。このころ浄瑠璃寺口からの道はなかったようだ。養豚場のあたりから浄瑠璃寺奥の院へ下る道も書かれている。今は失われた道が書かれていておもしろい。
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